2017/11/04 江古田散歩 07 延命地蔵尊/丸山塚公園/庚申塔/金塚/豊玉氷川神社

中野区立歴史民族資料館の後も西に向かって歩く。
休日のため子供が多く、公園で遊ぶ姿が見られた。
豊玉氷川神社練馬区になる。




延命地蔵



建物、非常階段の下にあった。
どういう形であれ、こうやって史跡が残ることはいいことだと思う。




お地蔵様のすぐ脇にあった「碑」
なぜか「江古田音頭」が刻まれていた。




◆丸山塚公園



この公園そのものが「塚」だったんだろうか?
とくに塚に関する説明板などは見当たらなかった。
gogle mapには公園の中央付近に「丸山塚」と記されていた。



豊島二百柱社

太田道灌と豊島泰経が戦った江古田ヶ原・沼袋の戦の犠牲者を祀っているとのこと。
この周囲に「塚」と呼ばれるものが多いのは、この戦い関連の物が多いらしい。
上記の丸山塚もそうなんだそうだ。


ちなみに、地図に載っていたのに気が付かなかった「古塚(狐塚・稲荷塚)」というのが、
中野区立歴史民族資料館の北にあるのだが、そちらもこの戦い関連。
後で行ってみようと思ったが、何も残ってないとのことなので断念。



庚申塔



かなり大きいほうだね。



金塚

google map に載っていた標の部分はこのあたり。
江古田ヶ原・沼袋の戦い関連とのこと。
とくに碑などはみつからなかった。
あったとしても宅地の中だと思われる。





◆豊玉氷川神社



 本社は旧中新井村(現在の豊玉地区)の鎮守で、祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)です。境内末社に北の・須賀・稲荷・三峰の各社があります。
 社伝によると、主神は北野神社が最も古く、次いで須賀神社、その後、大宮一宮の分霊を勧請して氷川神社を主神にしたといいます。すでに江戸時代の『新編武蔵風土記稿』には、「氷川社」の記載があります。
 境内南西側の旧神楽殿は、元氷川神社の拝殿で、文化八年(1811)の棟札があります。この建物は釘を一切使わない、組込式の建築技法を用いています。
 古い土地の人は、須賀神社を「天王さま」とよびます。天王様の祭礼は、昔は旧暦六月十五日でしたが、この祭には文化十年作と伝える御輿の渡御があります。田んぼの中を暴れ廻るというので「中新井天王さまの暴れ御輿」と近郷・近在で有名でした。今も九月の祭礼には変わらぬ姿で、往時を偲ばせます。



須賀神社


北野天満神社


三峰神社



神輿庫

  氷川神社境内社須賀神社に伝わる神輿です。修理・後補がなされているため、制作年代は不明ですが、飾り収納箱の蓋の裏側に「文化十年(1813)葵酉六月吉日、中荒井村惣村中」の墨書があり、江戸時代までさかのぼる可能性があります。総高は176cm、轅を除く最大幅は119cmで方形造りです。
 現在は、祭礼の際に拝殿内に置かれるのみですが、昭和30年代までは担がれていました。



氷川神社の力石



 ここに並ぶ8個の楕円形をした自然石は、江戸時代後期から明治時代にかけて、関東地方で盛んに行われた若者の「力だめし」に使われた力石です。
 力石には重量や村名などが刻まれ、特に五十五メ(貫)と刻まれた力石は、区内でも大きい部類の物です。



ビール麦の金子ゴールデン

氷川神社境内にはこんな碑もあった。



 わが国のビール麦栽培は外国から導入された品種によって始められました。最初に導入されたのは江戸時代末期といわれていますが、本格的に導入されたのは明治に入り、政府が勧業の一策として諸外国から穀類の種子を導入、試作を進めました。
 当時、輸入された中には大麦も多く、明治20年(1887)にはゴールデンメロン(米国)の名が記録されています。北豊島郡中新井村(現在 の練馬区豊玉)の金子丑五郎が明治33年(1900)、六条大麦の四国とゴールデンメロンの自然交雑によって生じた雑種の中から「金子ゴールデン」を育成 しました。
 早生で草丈が低いため成熟しても倒れにくく、一時、関東一円に栽培が広がりました。この品種を親にエビス一号、ニューゴールデン、アズマゴールデン、ふじ二条等の優良品種が育成され、初期のわが国ビール醸造に大きく貢献しました。





続く。