2017/11/05 02 国分寺散歩 02 黒鐘公園/伝鎌倉街道/尼寺北方の塚/伝祥応寺跡/史跡通り

このあたりは国分寺府中市の境目になるかな?
一応住所は国分寺市西元町になってるようだ。



◆黒鐘公園

入ってすぐの所には遊具が沢山あり、子供たちが沢山遊んでいた。





階段があって、のぼってみるとそこはもう山の中だった(汗
もう少し先に行くと武蔵台公園に繋がっているらしかったが、
山登りに来たわけではないので引き返した(w



◆伝鎌倉街道

ここが鎌倉街道の跡。



◆尼寺北方の塚

どうもこの盛り上がってる全体が塚らしい。
すぐ隣に武蔵野線の線路があった。




この塚(盛土遺構)は底面1辺約22m、高さ約3mで、一辺約7mの平坦な頂部を有する方錐体と復元され、周囲の地山層(黒褐色土)を削った土で築かれている。旧来「土塔」といわれ、国分寺に関係するものとされたが、二度に及ぶ調査の結果、中世(14・15世紀頃)において種々の祈願成就を得るために、作法に則り本尊に対し祈祷するために築かれた修法壇跡であり、伝祥応寺に関係するものと推考されている。
鉄道拡張工事に伴う第一次調査(1969)では、下層より平安時代竪穴住居跡2軒、盛土内より明銭(洪武通宝、1368年初鋳)1枚、頂部に主体部と思われる粘土敷き硬化面、その付近より梅瓶型瀬戸灰釉瓶子1点や素焼きの土師質土器片数点などが出土している。




この階段をのぼったところにある。




◆伝祥応寺跡




本跡は尼寺伽藍の一部とする説もあったが、近年の調査によって、鎌倉時代末頃に建てられた寺院と判明し、本多4丁目の祥応寺の前身にあたると考えられている。旧鎌倉街道と言われる切り通しに東面して、土塁(基底部幅3m、高さ1.2m以上)と溝とで東西30m、南北45mの長方形の区画が形づくられている。現存するおよそ15個の礎石の分布などから、東西9m、南北18mほどの規模の堂がその中央にあり、瓦を用いない建物であったと推定される。出土品には鉄製風鐸・板碑、銭貨などがある。


読みづらい・・・・・。




この階段の上にある。



◆史跡通り





 天平十三年(西暦741年)に市名の起源でもある武藏国分寺が建立されましたが、元弘三年(西暦1333年)に新田義貞北条泰家との戦いのため武藏国分寺は、惜しくも焼失してしまいました。現在、武藏国分寺の跡地は国の史跡に指定され史跡公園として整備されつつあります。
 昭和48年4月に西国分寺駅が開設されてから、この道路を地元の皆さんが史跡公園に通ずる道路であることから「史跡通り」と呼ぶようになりました。
 この史跡通りは、通過交通の侵入を抑制するとともに自動車の低速化により安全性の向上と違法駐車の排除、車いすの通れる横断歩道など、地区内道路の利便性及び緑化、美化等により生活環境の向上に役立つような道路にしました。また、史跡通りのイメージとして平板舗装は縄文土器を意味し、土器の紋様や武藏国分寺瓦の紋様を排しました。



続く。