水戸黄門、光圀が隠居していた場所とのこと。
ここで歴史書『大日本史』の編纂に尽力したんだそうだ。
光圀卿が自ら耕された水田(約50平方メートル)の一部で、一領民となられた証として、太田奉行所に十二俵の年貢米を納めました。
櫟の丸太を柱として自然美を取り入れた質素なつくりとなっています。「下乗」の立札〇 「どんな人でもここから〇 駕籠・馬から〇 歩け」という意味〇
〇=判読不能
周囲の木立に合わせて光圀卿が考案された簡素な門で昼は扉を突き上げておきます。
光圀卿は約五反歩の水田を耕作しており、この池の水をその用水として利用されました。
御座ノ間と御次ノ間の間には敷居がなく、身分を超えて領民と親しく交わりたいという光圀公の考えが表れています。壁一面に書棚を設け、長押の釘かくしには貝殻を用いた、御殿としての品格を持った造りです。
左手奥の三畳間の書斎は、光圀公が「大日本史」を編纂した御学問所です。元禄13年(1700)に光圀公はこの御寝室で生涯を閉じました。
光圀卿のお胞衣(後産)を納めてあります。もと水戸市〇町三木仁兵衛之次の宅地内にありましたが明治三十四年に移しました。
〇=判読不明 「棚」でもないし・・・・
光圀公の遺徳を偲び、文政2年(1819)に再建された御殿を守るため、水戸藩は守護役を設けました。この建物は守護役の役宅です。
西山荘
水戸黄門漫遊記で親しまsれテイル水戸第二代藩主徳川光圀卿(義公)が、元禄四年(1691年)五月から同十三年十二月六日この世を去るまで約十年間隠居所にされた遺跡である。光圀卿はこの地西山荘で大日本史の筆削をされるかたわら、あるときは敷居をへだてず、領民にも接し、いろいろな事業を進められた。荘内には、光圀卿が紀州から取り寄せた熊野杉をはじめ、老松古杉がうっそうと茂り邸内には薬用などの実用を兼ねた珍しい草木が多い。付近の観月山のもみじや、山中の傘(からかさ)御殿の眺望などとあわせて、四季折々味わい深い趣がある。なお庭前(にわさき)の心字の池を中心に周囲の山々を、庭に取り入れ、春秋の眺めもかくべつである。
旅はまだ続く。