2017/12/13 落合散歩 02 旧近衛邸のケヤキ/近衛篤麿公記念碑/おとめ山公園/東山藤稲荷

この辺りは豪邸がたくさん。
お金持ちが住むエリアなんだね・・・・。
山手線から離れてどんどん西の方に歩いていく。



◆旧近衛邸のケヤキ

道路の真ん中に生えているね・・・。



樹齢100年を超えるケヤキの大木で、近衛家屋敷の車廻しにあったと伝えられる。地域の要望により残された。




◆近衛篤麿公記念碑




公の諱は篤麿(あつまろ)、霞山(かざん)と号した大職冠藤原鎌足(かまたり)の後裔で、五摂家筆頭近衛家の第二十八代当主。文久三(1863)年六月二六日京都に生まる。
 明治一七(1884)年、華族に列し公爵。翌年ドイツに留学、明治二三(1890)年帰国し、貴族院議員。明治二八(1895)年学習院院長、翌年貴族院議長に就任。時の内閣からしばしば入閣を懇請されたが固辞し、常に野にあって国政の大局的指導に当たった。
 日清戦争前後における西欧列強の清国侵略に慷慨し、中国の保全と日中の協力を提唱。明治三一(1898)年東亜同文会を組織し、次いで上海に東亜同文書院、東京に東京同文書院を設立、日中両国学生の教育に尽瘁した。
 ロシアの中国への南下を憂慮し、国民同盟会、対露同志会を結成し、国論の喚起に努めた。しかし不幸にして難病に罹り、日露開戦直前の明治三七(1904)年一月一日逝去・行年僅か四二歳。
 当地は、公が明治三五(1902)年に晩年の居を定めたところでもあり、終焉の地となった。現在この辺は下落合と呼ばれるが別称近衛町ともいう。この記念碑は、公没後、二〇余年の大正一三(1924)年七月に建立された。




かつての霞山公の碑はよく整備されたこの地(広さ100坪)に築かれた塚の上に東側を正面に向けて建てられていた。
平成8年1月に現在のように再建された。





この地には大正末まで近衛侯爵家の屋敷があり、分譲後も近衛町と呼ばれた。




おとめ山公園










 江戸時代には、このあたり一帯をおとめ山と呼んでいました。この名は、将軍家の狩猟地で、立ち入り禁止の意味の御留山から起こったものと言われています。
 明治に入り、御留山の周辺は近衛家の所有になりましたが、大正初期に現在のおとめ山公園を含む西側半分を相馬家が取得し住まいとしました。相馬家は敷地内に長岡安平の手による池泉を中心とした回遊式庭園を築造し、現在その一部が公園に残っています。
 その後、敷地は分譲され、戦後は大蔵省に陳情して、公園として整備されることになり、昭和44年に新宿区立おとめ山公園(面積1.5ha)として開園しました。
 その後、区は、公園のみどりや湧水の保全拡充を図るとともに、あわせて、地域のレクリエーションの場や防災拠点を創出するため、隣接地を取得して講演を拡張することとしました。そして、平成26年10月、拡張整備が完了し面積約2.7haの現在の講演になりました。




 おとめ山公園とホタル
 おとめ山公園周辺は、かつてはホタル狩りの名所として知られていました。
 江戸名所図会の「落合蛍」には江戸時代のホタル狩りの様子が描かれています。うちわを使う者、長い竹竿を振り廻す子、手のひらで追う者が見えます。この図会は東山藤稲荷か、おとめ山付近を描いたものと思われます。
 また、江戸自慢三十六興の「落合ほたる」からもホタルを楽しんでいた当時の様子がうかがい知れます。
 このように、かつて、この地がホタルの名所であったことから、新宿区では、昭和48年からこの公園で蛍の飼育を始め、昭和53年からは毎年ホタル観賞会を開きました。
 その後、平成13年に地元の「落合蛍を育てる会」の方々に引継ぎ、現在は地域の方々の手によって活動が続けられています。



ホタル舎

来年の夏はホタルを見に来てみよう!




◆東山藤稲荷神社






お行儀のよいネコさんが居た。





続く。