2017/12/13 落合散歩 05 洗い場跡/佐伯祐三アトリエの地/厳島神社/トキワ荘の地

まだまだ西へ進む。
まだ起伏が多い。
ジワジワ疲れが溜まる(涙



◆洗い場跡

google mapのマークの場所に着くと、駐車場があるだけで何もなかった。
現地ではなにもわからなかった。



すぐ脇の階段



聖母坂通りに向かう階段



こんなオブジェがあった。



帰ってから調べてみた。
が、情報が少ない。
三方が階段になっており、水が集まりやすいので、ここで洗い物をしていたのかなぁと想像する。
それと、この場所がそうなのかどうかわからないが湧水があったとWEBにあった。
湧水を使ったかなり冷たいプールも存在していたみたいだ。
あとでもう少し調べてみようと思う。




◆佐伯雄三アトリエの地




 近代日本を代表する洋画家の一人佐伯祐三(1898〜1928)は、大正十年(1921)にこの地にアトリエ付住宅を構えた。当時の下落合は、武蔵野の面影が残り、静かな創作環境や魅力ある風景を求めて、多くの画家、文化人の活動拠点となっていた。
 大正十二年(1923)、家族とともにフランスに渡り、パリの街並みを数多く描いた佐伯であるが、大正十五年(1926)に健康上の理由等で帰国した。再びフランスに渡る昭和2年(1927)までの約2年間は、パリで得た描写法を日本の風景に当てはめ、自己の画風を醸成させることに努めた。特に、30点余りあるとされる、下落合周辺に画題を求めた連作「下落合風景」は、このアトリエで制作されたものである。
 この地は、佐伯が日本でアトリエを構え創作活動の拠点とした唯一の場所であり、北側の大きな採光窓等、当時の典型的なアトリエ建築を今に伝える建物が現存することから、日本近代洋画史の上でも、新宿の歴史や風土を理解する上でも重要な場所である。




厳島神社






トキワ荘の地

この商店街の周りはトキワ荘関係の建物や碑がいっぱい存在した。



トキワ荘通りお休み処>

お米屋さんだった建物を改装してトキワ荘関係を巡る人のお休み処と観光ガイドする場所。




トキワ荘跡>

この看板を目印に曲がると、碑が建っていた。
今は企業さんの敷地になっていた。








トキワ荘のヒーローたち>




 トキワ荘 は、豊島区椎名町五丁目(現・南長崎三丁目)にあったアパートです。1953(昭和28)年、その二階に、漫画家 の手塚治虫 が入居しました。家賃は三千円、押入れ付四畳半の部屋でした。その頃、椎名町をはじめとする西武線沿線地域には多くの漫画家が住んでおり、手塚もこの地域にあこがれ、雑誌『漫画少年』の編集者の紹介で入居したと言われています。この年の末に同じく編集者の紹介で寺田ヒロオ も入居します。
 翌年、手塚は豊島区雑司が谷のアパート並木ハウスへ転居します。その際、トキワ荘の空いた部屋の敷金をそのままにしておくからと、藤子不二雄 (藤子・F・不二雄藤子不二雄Ⓐ) に入居を勧めます。彼らが喜んで、あこがれの手塚の部屋に入居したのは有名な話です。
 その後も鈴木伸一森安なおや石ノ森章太郎赤塚不二夫水野英子よこたとくお 等が、漫画家を志して入居します。二十歳前後で上京した彼らは、お互いにはげまし合いながら創作に打ち込みました。ひたむきに仕事に取り組み、仲間と集う日々は、笑いと活気に満ちたものでした。
 寺田は、若手漫画家らと「新漫画党」を結成し、トキワ荘を拠点に活動します。この頃には、通ってくる漫画家も多く、トキワ荘は“漫画家の梁山泊”ともいわれました。記念碑のトキワ荘入口にあるスクーターは、熱心な通い組であった、つのだじろう のものをイメージしています。この他にも、永田竹丸、横山孝雄、長谷邦夫 など、記念碑に刻み込めないほど多くの若い漫画家たちがトキワ荘に通っていました。
 手塚を慕う若手漫画家が集まったトキワ荘。彼らの活躍によって、トキワ荘の名も全国的に有名になりました。トキワ荘は現存しませんが、この地で若き漫画家たちが青春を過ごし、研究と努力の末に、今日の地位を築いていったことは、かけがえのない地域の誇りであり“漫画家の聖地”として今に語り継がれています。
 区は、地域の方々で組織された実行委員会と協働し、トキワ荘の跡地に一番近いこの公園に記念碑を設置しました。この事業には、地域とトキワ荘ゆかりの漫画家、編集者、プロダクションなど多くの方々から多大なる協力をいただきました。






この碑は東長崎花咲公園の中にある。
割と広い公園だ。





続く。