2018/11/05 01 日暮里散歩 03 金杉踏切/鍛冶稲荷/舎人ライナー日暮里駅/にっぽり駅前商栄会/太田道灌像/下御隠殿橋

ちょっと歩いただけで日暮里駅に着いてしまう。
舎人ライナーに乗り換える時に数回乗ったことはあるけれど、日暮里の駅に降りて散策したことはない。
圓朝まつりのときに仕事で来たくらいかなあ。
あのイベント、まだやっているのかな??



◆金杉踏切

上も鉄道の高架になっているので、遠くから見ると下が踏切になっているとは思わなかった(w






◆鍛冶稲荷神社





◆舎人ライナー日暮里駅



にっぽり駅前商栄会



太田道灌


天一

道灌の「山吹の一枝」の故事 にちなんで、それを契機に文の道に目覚めたという道灌が、まさに「回天」の率いて文の道を極めていったことを表現しようと「回天一枝」という作品名を、作者の橋本氏と鈴木俊一都知事がこの太田道灌騎馬像 に命名いたしました。

-山吹の伝説-
若き日の太田道灌 が狩りの道中で雨に遭い、一件のあばら家に立ち寄り、蓑(みの)を借りようとしました。しかし少女は無言で山吹の一枝を差し出し、道灌は怒って雨の中を帰りました。
その後家臣から、少女は「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」という古歌によせて、蓑ひとつない貧しさを山吹に託したのでしょうと聞き、己の無学さを恥じ、歌道にも励むようになったといわれています。




山吹の花一技


太田道灌 山吹の里伝説

 鷹狩の途中で道潅が急な雨に遭遇し、路傍の農家に立ち寄り、蓑を借りようと声をかけると、一人の娘が出て来て黙って一枝の山吹を捧げた。
「七重八重花は咲けども山吹の
       実のひとつだになきぞ悲しき」
(御拾遺和歌集兼明親王
 「山吹」の意を得ずに、憤り帰った道潅は、家臣から「山吹」の意を告げられる。娘が古歌に託して「実の」に「蓑」をかけ「お貸しできる蓑もぼざいません」と詫びていたことを知った道潅は、この後、和歌の道に精進するようになったといわれている。
 荒川区周辺は、同館の鷹狩りの場であり、花の木(現在の荒川六丁目)辺りに住んでいた高畠三左衛門の娘が、山吹の枝を差し出したと伝える。なお、この山吹の里伝説は、荒川七丁目の泊船軒、豊島区高田、新宿区新宿、埼玉県入間郡越生町など、各地にその伝承地がある。

太田道灌(1432~86)
 室町時代中期の武将、名は資長。道灌は出家後の名。扇谷上杉氏に仕えて、武蔵南部と相模の国で勢力を拡大し、江戸城の他に、川越・岩槻にも築城したとされている。荒川区周辺では平安時代から続く豊島本宗家を滅亡させた。軍事は言うまでもなく詩歌に長け、万葉集九ら学僧や歌人とも親交が深かった。
 区内西日暮里には道潅に由来する伝承がいくつも残っている。道灌山(西日暮里四丁目)の地名は、江戸城の出城に由来すると伝え、道灌の子孫、掛川藩太田家の菩提寺の本行寺(西日暮里三丁目)には、」物見塚のあったことを伝える道灌丘碑が立つ。その他、西日暮里公園には、物資を運ぶ際に目印にした船繋松があったと伝え、出城の鎮守・諏訪神社などがある。




◆下御隠殿橋




電車が良く見える。
この橋反対方面は日暮里駅舎



続く。