2018/11/07 千駄木散歩 02 千駄木三丁目第二児童遊園/旧安田楠雄邸庭園/禁葷酒/須藤公園/アトリエ坂/講談社発祥の地/浄風会館

この日記のエリアでは千駄木駅のある南西方向に進む。
だんだん文京区らしい坂の多い場所になってくる。


千駄木三丁目第二児童遊園

この公園は前の日記の大給坂の上にある。
写真の立派なイチョウは「大平イチョウ」というそうだ。名前の由来は内閣総理大臣になる大平正芳も住んでいたことにちなむらしい。




◆旧安田楠雄邸庭園

かなり前に中に入ったことがある。
mixi日記の中だなあ・・・。
現在は耐震工事中でおやすみとのこと。




 旧安田楠雄邸庭園は、「豊島園」の創始者で実業家の藤田好三郎によって作られ、大正八年(1919)に家屋が竣工し、その後庭園が完成しました。大正十二年の関東大震災後、安田善四郎が買い取り、平成七年に善四郎長男の楠雄氏が亡くなるまで大切に住み続けられ、平成八年に公益財団法人日本ナショナルトラストに寄贈されています。安田善四郎は、旧安田財閥創始者である安田善次郎の女婿です。
 当初約1800㎡であった(現在は約1500㎡)敷地は東西に長く、雁行式に配した日本家屋に沿って、前庭・主庭・中庭・坪庭の4つの庭園が配されています。特に南側の主庭は滝石組を含む東西16mある”流れ“を主景とし、効果的に配された樹木が絵画的な美しさを添え、各室からはそれぞれに異なる景色を楽しむことが出来ます。建物も、洋風の応接間を併せ持つ近代和風住宅であり、照明や家具も当時のままに残されています。建物と庭園とが共に関東大震災と第2次世界大戦の被災を免れ、今日まで受け継がれてきた貴重な文化財です。




◆禁葷酒




禁葷酒とは何のことだと思って調べたら、「酒の匂いをさせて入るな」という意味とのこと。
僕は一発でアウトだね。
仏教にもとづく思想のことばという言葉だそうだが、なんでここにあるのかはわからなかった。
「禁葷食」という言葉もあり、肉の他に匂いのキツイ葱とかの野菜もアウトととのこと。
知らない言葉が次々出てくるなあ。




◆須藤公園

左の島の上に弁財天、右側には藤棚。
これは是非「藤」の季節に来たい!






 江戸時代、この地は、江戸の郊外にあたり、加賀金沢藩の支藩である大聖寺藩の下屋敷でした。
 屋敷は、閑静で敷地も広く、後に弥生岡をひかえ、前には遠く東京湾を隔てて房総半島の山々が望まれるなどの景勝の地でした。
 庭園の規模はさほど大きくありません、起伏に富んだ地形を巧みに活かした回遊式の大名庭園が造られ、今日でも当時の大名の気風を偲ぶことができます。
 池泉内には、約三十坪(約100㎡)の中ノ島があり、古くから弁財天の祠堂が祀られ、燈篭と玉石敷きの州浜が風趣をそえています。
 明治維新後、長州(現在の山口県)出身の政治家、品川弥二郎(1843~1900)の邸宅となり、その後、明治二十二年(1889)実業家の須藤吉右衛門に買い取られ、庭園は、須藤家屋敷の一部として、大名庭園の旧態を損なわないよう保存されました。
 昭和八年(1933)須藤家から公園用地として、東京市に寄付され、市は散水の補修と公園として必要な施設等の整備を行いました。
 昭和十八年(1943)東京市は東京都となり、昭和二十五年(1950)公園は、文京区に移管されました。
 区は、池や滝などの改修を行い、区民に親しまれ活用される公園とするために造園を行いました。
 公園名は、須藤家の厚意を伝えるため、名づけられたものです。







須藤の滝




石碑

何の関なのかは不明








◆アトリエ坂

藤公園のすぐ脇に通る坂。
google mapに載っていたので来てみたが説明板は見当たらなかった。
調べてみると、以前坂の途中に“アトリエ千駄木”という美術教室があったことにちなむとのこと。



講談社発祥の地




 1909年(明治42年)11月、青年・学生の弁論と精神修養のための雑誌「雄辨」発行を志した30歳の野間清治は、東京団子坂下の借家(旧・本郷区駒込坂下町48番地。現・文京区千駄木3丁目)の門柱に「大日本雄辨會」の看板をかかげた    講談社の創業である。
 創業時よりこの地にある伊予青石に刻まれた文字は、第6代社長 野間佐和子の揮毫になる。




◆浄風会館

 HPには次のようにあった。
『在家日蓮宗浄風会は、「妙法蓮華経法華経)」を根拠の経典とし、寺院仏教から独立した、社会人のための・社会人による在家教団です。』
宗教団体さんでいいのかな?




続く。