2018/11/05 01 日暮里散歩 01 西日暮里駅/西日暮里公園/高村光太郎碑/太平洋美術会/諏訪神社/浄光寺/富士見坂

24時間勤務アケで、西日暮里駅から日暮里駅まで歩く。
この日記のエリアでは西日暮里駅から南に向かって進む。



西日暮里駅




スタートの西日暮里駅



◆西日暮里公園

2018/09/13
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20180913/1537104342
こちらの日記で来た場所。
案内板の近くでたばこ吸っている人が居て写真が撮れなかったので再チャレンジ。




全部で6枚の説明板があった。





 道灌山は、上野から飛鳥山へと続く台地上に位置します。安政三年(1856年)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」では、現在の西日暮里4丁目付近にその名が記されています。この公園を含む台地上に広がる寺町あたりは、ひぐらしの里と呼ばれていました。
 道灌山の地名の由来として、中世、新堀(日暮里)の土豪、関道灌が屋敷を構えたとか、江戸城を築いた太田道灌が出城を造ったなどの伝承があります。ひぐらしの里は、江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しんだところから、「新堀」に「日暮里」の文字をあてたと言われています。
 道灌山ひぐらしの里は、荒川区内で最も古い歴史をもつ所です。このあたりから出土した土器や、貝塚・住居址などは、縄文時代から数千年にわたって人々の営みが続けられたことを物語っています。
 道灌山ひぐらしの里は、江戸時代の中頃になると、人々の憩いの場として親しまれるようになりました。道灌山の大半は秋田藩主佐竹氏の抱屋敷になりますが、東の崖ぎわは人々の行楽地で、筑波・日光の山々などを展望できたといいます。また薬草が豊富で、多くの採集者が訪れました。ひぐらしの里では、寺社が競って庭園を造り、さながら台地全体が一大庭園のようでした。

  桃さくら鯛より酒のさかなには
みところ多き日くらしの里      十返舎一九

 雪見寺(浄光寺)、月見寺(本行寺)、花見寺(妙隆寺<現在は廃寺>・修性院・青雲寺)、諏訪台の花見、道灌山の虫聴きなど、長谷川雪旦や安藤広重ら著名な絵師の画題となり、今日にその作品が伝えられています。
 明治時代、正岡子規道灌山ひぐらしの里あたりをめぐり、『道灌山』という紀行文を著しました。

  山も無き武蔵野の原をながめけり
車立てたる道灌山の上        子規

 昭和四十八年、ここ西日暮里公園が開園し、区民の憩いの場となっています。


道灌山


道灌山船繋松(ふなつなぎのまつ)

 道灌船繋松のことは、「江戸名所図会」(天保七年刊(1836)、齋藤幸雄、幸孝、幸成(月岑(げっしん))の三代三人が文章を書き、長谷川雪旦が絵を描く)にくわしく書かれている。

 「青雲寺の境内、崖に臨みうっそうとしてそびえたり。往古は二株(しゅ)ありしが、一株は往んじ安永元年の秋大風に吹き折れて、今は一木のみ残れり。(中略)
 或人云く、往昔(むかし)このふもとは豊島川に続きし入江にて、道灌の砦城ありし頃は、米穀その外すべて運送の船より、この松を目当てにせしものにて、つなぐといふもあながち繋ぎとどむるの義にはあらず、これは舟人の詞にして、つなぐといふは目的にするなどいえるに同じ心とぞ。よってその後道灌山の船繋ぎの松と称して、はるかにこの所の松を目当にせしを誤りて、道灌船繋の松と唱ふるとぞ。」



 長谷川雪旦は、「日暮里惣図」と題し、この地域を七枚の絵に描いています。道灌山から諏方神社、浄光寺、養福寺、本行寺まで、当時の様子がわかります。
 道灌船繋ぎの松は、この絵の中で台地上に高くそびえています。安永元年(1772)の秋台風のため一本が折れ、残り一本になってしまったようです。
 この松をなつかしんで、『日暮里繋舟松之碑』が道灌山に建てられたが、現在は、青雲寺本堂脇に移されています。建碑の年月はわかっていません。天明五年(1785)に鳥居清長の描いた墨版「画本物見岡」の日暮里青雲寺境内の絵に、この石碑を眺めている人たちの姿がみられることから、石碑は、安永元年から天明5年までの13年間に建てられたことがわかります。
 道灌山の船繋松は、ここのシンボルであり、近在の人たちに親しまれ、大切にされていました。



道灌山虫聴




 江戸時代から明治時代にかけて、道灌山は虫聴きの名所でした。「江戸名所花暦(えどめいしょはなごよみ)(文政十年(1827)刊行、文は岡山鳥(さんちょう)で、絵は長谷川雪旦)には、次のように書かれています。
    虫 
 「道灌山 日暮より王子への道筋、飛鳥山の続なり。むかし太田道灌出城の跡なりといふ。くさくさの虫ありて、人まつ虫のなきいつれはふりいてゝなく鈴虫に、馬追ひ虫、轡(くつわ)虫のかしましきあり。おのおのその音いろを聞んとて、袂すゝしき秋風の夕暮より、人人ここにあつまれり。また麻布広尾の原、牛嶋もよし。」

 虫聴きの名所は、道灌山が最も有名で、とくに松虫が多く、澄んだ音色が聞けたといいます。このほか真崎(まさき)(南千住白鬚橋のたもと)、隅田川東岸(牛島神社あたり)、三河島辺(荒木田の原あたり)、王子・飛鳥山辺、麻布広尾の原が虫聴きの名所であった。
 「東都歳時記」によれば、旧暦七月の末、夏の終わりから秋の初めにかけて、「虫聴」が盛んだったと記されています。
 道灌山虫聴の絵は、雪旦、安藤広重、尾形月耕が描いた三種類があります。広重の絵は公園入口脇に模写したものがあります。
 尾形月耕は、明治期に活躍した画家で、岡倉天心らとともに、美術界発展に尽くした人です。新聞の口絵・挿絵が有名でした。
 この絵は、道灌山に月が昇る頃、中腹にむしろを敷き、虫かごに虫を入れて鳴かせ、たくさんの虫に音色を催促しています。坂を上がってくる女性が足音を忍ばせている姿ほほえましく感じます。
 この絵は、明治末頃の作と思われますが、秋の夜長に涼を求めて、老若男女がここに集まり、自然の美しさ、素晴らしさを楽しんでいたのです

青雲寺境内と前田家墓地

 かつてこの地には、太田道灌の砦に荷を運んでいた舟人が目印にしたという舟繋松(ふなつなぎのまつ)があり、荒川(現隅田川)の雄大な流れ、筑波・日光山の山影を望むことができる景勝地として、多くの人びとが訪れた。花見寺の一つ青雲寺(西日暮里三丁目六番)の境内の一部で、金比羅社なども祀られていた。 
 明治七年(1874)、この一帯が旧加賀藩前田家に売却され、同家墓地となった。前田家12代当主の斉泰から4代にわたって神式の墓地として使われたが、昭和四十七年(1972)に国許の金沢(石川県)に改葬され、翌四十八年、その跡地にこの西日暮里公園が開設された。なお、この跡地にあった日暮里舟繋松の碑や滝沢馬琴筆塚の碑などは、現在の青雲寺本堂前に移されている。



高村光太郎書「正直親切」の記念碑




 「正直親切」の文字は、本校卒業生である高村光太郎の直筆で、昭和26年岩手県山口小学校の児童のためにかかれたものを高村規氏、財団法人高村記念会のご厚意により創立百周年記念碑に使わせていただきました。
高村光太郎は、明治23年に下谷区練塀小学校から日暮里小学校(当時は、現在の福祉館の場所に校舎がありました)に転校、ここで勉強し小学校を卒業しました。
 その後、彫刻家としてすぐれた作品をつくり、また詩や絵もかき、立派な書を数多く残しています。
ここで大切なのは、それらの作品を通して光太郎が人を愛し、自然を愛する人間としての生き方を教えていることです。
先輩光太郎が心をこめてかいた「正直親切」の文字が、本校に学ぶ児童一人ひとりの心のなかに、いつまでも生き、その成長を支えることを望みます。
 「フクロウ」の像は、石彫家飯田雅光氏の作で、本校校歌にもある〝諏訪の森かげ、みどりの風に〟ふさわしい《森の知者》として、一日小の子どもたちのシンボルとなり、永く親しまれることを願っています。



◆太平洋美術会



 太平洋美術会は、明治35年にその前身である太平洋画会が創設されて以来、明治、大正、昭和、平成の四世代にわたる輝かしい伝統を築き上げてきた、我が国の洋画及び彫刻界における最古の歴史を誇る団体です。
 明治37年に谷中清水町に洋画研究所を開設後、昭和4年に研究所を太平洋美術学校と改め、官立の学校に対抗し、在野の立場から坂本繁二郎、中村彜、高村智恵子など、幾多の英才鬼才を我が国洋画壇に送り込んできました。
 昭和20年3月の戦災による校舎焼失後、会員一同の協力により、諏訪神社前のこの場所に再建され、昭和32年、名称を太平洋美術会と改め、現在に至っています。
 平成7年度開始の「ディスカバーあらかわ 区内の風景画展」「荒川区を描く絵画講習会」開催など、荒川区の芸術・文化振興にも多大な貢献をされています。
 平成14年に百周年を迎えた伝統あるこの団体が荒川区に本拠を構えていることは、荒川区民の誇りとするところであり、ここに太平洋美術会の足跡を記し、その功績を讃えるものであります



諏訪神社




 信濃国(長野県)上諏訪社と同じ建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀る。当社の縁起によると、元久二年(1205)、豊島左衛門尉経泰の造営と伝える。江戸時代、三代将軍徳川家光社領五石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰をあつめた。
旧暦七月二十七日の祭礼では、囃(はやし)屋台・山車をひきまわし神輿渡御が行われた。神田芋洗橋までかつぎ、そこから船で浅草・隅田川を経て、荒木田の郷で御神酒をそなえて帰座したと伝えている。
 拝殿の脇には元禄十二年(1699)銘・元禄十四年(1701)銘の灯籠型の庚申塔が並んで建てられている。



鳥居



楽殿




源為朝公の山車>
 この人形は山車にしつらえ、御輿とともに巡行したもので、平安時代末期武勇に猛けた「源為朝」鎮西八郎為朝公を擬してある。製作年は安政(1854~1860)とあるが作者は現在不詳。
 当時の日暮里諏方様の山車は、江戸の中でも有名であり且格式の高いものであった。特に日清戦勝の祝賀会が皇居前広場で行われた時、東京中の山車が勢揃いした。その勢揃いの順位が 3番目、道中鳶頭連中が木遣りと芸者の手古舞を、2頭の牛車が引いて参列し絢を競ったといわれる。
 明治の終わり頃までは本祭りのたびに牛と子供連中に曳かせたが、その後土地の発展に従い電線などにより不可能となり、氏子有志が組織した「祖崇会」が維持管理し人形だけ飾った。戦後からそれが自然と消滅して、人形は倉庫の中に保管したがその痛みが激しく、このままでは朽ち惜しいということで、金子正男・工藤三郎両氏相計い昔日の姿に復元したものである。



三宝荒神



末廣稲荷神社・銭降稲荷神社



三峰神社



神輿庫




鳥居





◆浄光寺






◆富士見坂




 坂下の北側の墓地は日蓮宗(みょうりゅうじ)(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれてことから、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称された。
 都内各地に残る「富士見」を冠する地名の中で、現在でも富士山を望むことができる坂である。






2013年まで富士山が見られたようである。



続く。