2018/11/14 谷中散歩 01 日暮里駅/本行寺/長明寺/宋林寺/岡倉天心宅跡/蛍坂/加納院

24時間勤務アケで日暮里から千駄木まで歩く。
この前来たけど写真を撮らなかった「本行寺」に行き、谷中銀座をかすめたあとに南西方向に進む。


◆日暮里駅

スタートのJR日暮里駅。
こんな出口があったんだね!?




◆本行寺




<月見寺(本行(ほんぎょう)寺)>

 本行寺は、大永六年(1526)、江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永六年(1709)、現在地に移転した。景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれていた。二十世の日桓上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れ、「青い田の、露をさかなや、ひとり酒」などの句を詠んでいる。
 儒学者市河寛斎・書家米庵父子や、幕末・維新期に活躍した永井尚志などの墓がある。戦国時代に太田道灌が斥候台を築いたと伝える道灌物見塚があったが、現在は寛延三年(1750)建碑の道灌丘碑のみ残る。



<市河寛斎・米庵父子の墓(東京都旧跡)・永井尚志の墓(東京都旧跡)>

市河寛斎
江戸時代の儒学者漢詩

市河米庵
市河寛斎の長子。江戸時代後期の日本の書家、漢詩人。

永井尚志
幕末の旗本。三島由紀夫の父方の高祖父にあたる。



道灌丘碑

 長禄元年(1457)、太田道灌(資長)が江戸城築城の際、眺めの良いこの地に「物見塚」という斥候台を造ったという。「江戸名所図会」の「日暮里惣図」によると、本行寺の境内裏手に「ものミ塚」があり、塚の脇にこの石碑が描かれている。本行寺は道灌の末裔とされる掛川藩主 太田氏の菩提寺であり、寛延三年(1750)に住職の日忠や太田氏にゆかりのある古屋孝長、四宮成煥らが、道灌の業績を記した碑を建てた。撰文は、儒者の石島筑波。小林一茶もしばしば訪れ、「陽炎や 道灌どのの物見塚」と詠んでいる。物見塚は、明治時代の鉄道施設でなくなったが、碑は、山門を入った正面に移設されて現在に至る。



短冊塚

短冊の塚は初めてみたと思うなぁ・・・・・。







◆長明寺




境内社




銅鐘




 本銅鐘は、総高一二二・九センチ、口径七五・一センチ。銘文によると天和二年(1682)初冬(十月)十六日、屋代安次が自らの逆修供養のために寄進した。逆修とは生前に自分の死後の冥福を祈るために仏事を修することである。撰文は下総国飯高(現、千葉県匝瑳市)の日蓮宗檀林所として著名な飯高寺の僧性孝、書は長明寺四世住職日習。鋳物師は椎名伊予良寛。鋳物師の椎名家は江戸時代初頭に多くの作例を遺し、椎名伊予吉次を初代とする江戸鋳物師の名家であった。
 椎名伊予良寛は延宝九年(1681)頃から元禄十三年(1700)頃にかけて活躍した鋳物師で、およそ二十六点の作品を残している。銅鐘が十九点、銅燈籠が二対四点、宝塔・水盤が各一点である。とくに宝塔は上野寛永寺にある将軍家墓所のひとつで、四代将軍家綱(厳有院)の墓である。このように将軍家の墓の鋳造を任されている事からも、椎名良寛が当時実力を伴った著名な鋳物師であったことがわかる。







◆宋林寺



浄行菩薩




銅鐘




 宗林寺は妙祐山と号する日蓮宗寺院である。はじめは駿府静岡県静岡市)に創建されたという。その年代は不明だが、天正年間(1573~1592)に江戸昌平橋外に移り、後に上野東寺町に移転したという。さらに元禄14年(1701)に当地へ転じた(『御府内寺社備考』)。
 本鐘は銅製、鋳造。大きさは、総高153.2cm、口径86.6cm、宝暦四年(1754)、鈴木播磨大掾藤原定久(すずきはりまだいじょうふじわらのさだひさ)によって製作された。
 本鐘を鋳造した鈴木定久は、江戸時代中期中葉に活躍した江戸の鋳物師であり、神田に居住したことが作例の銘文から知られる。定久の活動期間は、宝暦年中(1751~1764)の短期間で、作例は銅鐘、銅常香盤、銅燈篭など八例が知られる。とくに銅鐘は、本鐘を含めて五例が知られるが、現存が確認できるのは二例にとどまる。
 本銅鐘は鈴木播磨大掾藤原定久が制作した遺品の内、現存するものとして希少であり、その重要性はきわめて高い。さらに、金星の鋳物師の制作活動や、鋳造技術を知る上で貴重な遺品である。
 平成二十九年三月に台東区有形文化財(工芸品)として台東区区民文化財台帳に登載された。







岡倉天心宅跡

岡倉天心史蹟記念堂

 明治美術界の偉大な先覚者岡倉天心は、明治21年(1888)当地谷中初音町に日本美術院を創設し、幾多の俊英を育成して東洋美術の真髄を広く世界に紹介した。とくに日本の明治開化期にあって、東京美術学校の創立、中国、インドの古美術踏査、日本美術史の著述など多岐にわたる芸術活動は、我が国美術界に大きな改革をもたらした。
 本区の誇る偉才岡倉天心の輝かしい業績を後世に伝えるべく台東区長上條貢氏は、かねて遺蹟顕彰の方策を持っていたが、時偶々上野信用金庫理事長長野高一氏より多額の浄財の寄託を受けるに及び日本美術院発祥の当地に岡倉天心史蹟記念堂の建設を発意した。
 上條区長の委嘱により地元関係者をもって建設委員会が編成され、史蹟記念堂の実現に意を注いだ。幸い天心の直門であり、その薫陶にも触れた日本木彫界の泰斗平櫛田中先生の賛意を得て秀作「岡倉天心像」の寄贈を受け、これを六角堂に収め「岡倉天心史蹟記念堂」と命名する。



越前水仙



<越前水仙について>

ここには、岡倉天心にゆかりのある福井県より寄贈された越前水仙が植えてあります。なお、この水仙は地元谷中初四町会の皆様により植栽されました。
平成19年10月5日

水仙ヒガンバナ科多年草で、原産地は地中海といわれており、日本にある水仙は中国から伝わったとされています。福井県の越前海岸に群生する水仙を特に越前水仙と呼んでいます。越前海岸は、房総半島、淡路島と並んで、日本三大群生地のひとつで、約60ヘクタールの水仙畑は日本一の規模を誇ります。日本海に面した急斜面で寒風に耐えて咲く姿が、別名「雪中花」と呼ばれ、多くの作家、歌人、画家の題材にもなってきました。凛とした表情で咲き誇る越前水仙は、芯の強い県民性に通じるとされ、昭和29年に福井県花に指定されました。





何が刻まれているのかわかりませんでした・・・・。



岡倉天心宅跡
旧前期日本美術院




 日本美術院は明治三十一年(1898)岡倉天心が中心になって「本邦美術の特性に基づきその維持開発を図る」ことを目的として創設された民間団体で、当初院長は天心、主幹は橋本雅邦、評議員には横山大観、下村観山らがいた。
 活動は絵画が主で、従来の日本画の流派に反対し、洋画の手法をとり入れ、近代日本画に清新の気を与えた。
 この場所に建てられた美術院は明治三十一年九月に竣工した木造二階建で、南館(絵画研究室)と北館(事務室・工芸研究室・書斎・集会室)からなり、附属建物も二、三あったといわれている。明治三十九年(1906)十二月に美術院が茨城県五浦に移るまで、ここが活動の拠点となっていた。
 昭和四十一年(1966)岡倉天心史跡記念六角堂が建てられ、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されている。




<旧谷中初音町四丁目>

 旧谷中初音町二丁目 初音町という町名は、谷中初音町三丁目から四丁目にかけたところに鶯谷と呼ばれるところがあったことから、鶯の初音にちなんで付けられた。初音とは、その年に初めて鳴く鶯などの声のことである。
 谷中初音町は、はじめ一丁目から三丁目として誕生した。明治二年(1869)のことである。そして同四年、江戸時代から六阿きょう彌陀横町または切手町といわれた武家地が初音町四丁目になり加わった。さらに同二十四年、初音町四丁目は谷中村、下駒込村、日暮里村の一部を合併し、ここに初音町としての町域を確定した。
 本町には、かつて日本近代美術の先覚者岡倉天心が住んでいた。明治三十年(1897)東京大学卒業後、文部省に勤めたが同十二年、東京美術学校を開設するなどして日本近代美術の振興につとめた。その天心の旧居跡が現在の岡倉天心記念公園である。公園正面の六角堂には本区名誉区民・芸術院会員であった平櫛田中作の「岡倉天心先生坐像」が安置されている。




◆蛍坂








 江戸時代,坂下の宗林寺付近は蛍沢と呼ぶ,蛍の名所であった。坂名はそれにちなんだのであろう。『御府内備考』では「宗林寺の辺も螢沢といへり」と記し,七面坂南方の谷へ「下る処を中坂といふ。」と記している。中坂とは三崎坂と七面坂中間の坂なのでそう呼んだ。三年坂の別名もある。




◆加納院








続く。