この日記のエリアは、谷中霊園のすぐ西側になる。
お寺だらけ過ぎる・・・・。
境内社?
本町名のもとになった「谷中三崎町」は、元禄年間(1688~1704)のころまですでに谷中村から分かれ町屋を形成していた。「三崎」のいわれは幾つかあるが駒込、田端、谷中の三つの高台が見えることから名付けられたとするのが通説である。
明治五年(1872)谷中三崎町の東側に谷中三崎南町・北町の二町があらたに命名された。東側が地形的に谷中三崎町より高いことから上三崎の名が付けられ、南・北は位置関係からこうよばれたようだ。
-日本画壇に尽くした画家ー
長安寺に眠る狩野芳崖は江戸末期から明治時代に活躍した日本画家で、岡倉天心、橋本雅邦に師事し東京美術学校教授に就くとともに日本芸術院の発展に力を注いだ。安立寺に永眠。
下村観山墓
明治から昭和初期にかけての画家、本名は晴三郎。明治六年(1873)和歌山に生まれる。幼少から絵を好み、明治十四年(1881)上京。狩野芳崖、橋本雅邦に師事、ついで東京美術学校(現在、東京芸術大学)に学び、明治二十七年(1894)卒業同校助教授となった。明治31年(1898)、岡倉天心の日本美術院創立に参加し、菱田春草、横山大観らと活躍した。その後、教授に復職、また、文部省留学生としてヨーロッパに渡り、明治三十八年(1905)帰国する。
当時、日本美術院は不振の難局にあり、天心がその絵画部を茨城県五浦(北茨城市)に移したとき、観山も大観らと同所に転居した。明治四十年(1907)第1回文展に「木の間の秋」を出品、好評を得た。明治四十五年(1912)、五浦を引き上げ、新居を横浜にかまえた。
大正二年(1913)岡倉天心が没し、翌大正三年(1914)大観らと日本美術院を再興、現代日本美術の発展に寄与した。観山は多くの名作を発表したが、なかでも歴史を題材としたものを得意とし、「弱法師」は代表作である。
昭和五年(1930)五月、58歳で没した。
現地に説明板は無かった。
観音寺さんのHPに詳しく載っていた。
yanaka-kannonji.jp
◆香隣舎
WEBで探してみたのだけれど、どんなところなのかハッキリわからなかった。
旧 谷中初音町二丁目
初音町という町名は、谷中初音町三丁目から四丁目にかけたところに鶯谷と呼ばれるところがあったことから、鶯の初音にちなんでつけられた。初音とは、その年に初めて鳴く鶯などの声のことである。
谷中初音町は、はじめ一丁目から三丁目として誕生した。明治二年(1869)のことである。四丁目ができたのは、それより少し遅い明治四年である。その後、谷中村、下駒込村、日暮里村の一部を合併して谷中初音町としての町域を確定したのは明治二十四年のことである。
谷中初音町二丁目は、元禄十七年(1704)に町屋の開設が許されてできた天王寺中門前町が改称された町である。
続く。