2018/11/24 清瀬散歩 02 柳原橋/野塩八幡神社/清瀬市野塩柳原住宅/円福寺/梅坂橋

この日記のエリアも先程同様、明治薬科大のある北東に進む。
ちょっと寄り道して薬科大南側のエリアを散策。



◆柳原橋











◆野塩八幡神社




稲荷神社/御嶽神社








御嶽神社






鳥居





清瀬市野塩柳原住宅





円福寺




鐘楼堂と三重塔



薬師堂





円福寺薬師堂 十二神将
 十二神将は薬師十二本願の化身といわれ、薬師如来の守り神として十二体がすべて武将の姿をしています。
 さらに十二神将は十二支と結びつけられて信仰されました。円福寺薬師堂の十二神将も頭にそれぞれ十二支の動物をつけており、動きのある力強い姿をあらわしています。
 円福寺に伝わる「薬師如来由来記」によればこの十二神将の作者は、仏師定朝(ぶっしじょうちょう)(平安時代後期の人)とされていますが、一部をのぞいて室町時代の技法を伝えています。
 なおこの薬師堂は、徳川時代初期の頃(約四〇〇年前)野塩村を所領した匂坂(さきさか)氏が、領民の安穏を祈願して創建したものといわれています。建物はその後建て替えています。
 このお薬師さまは近頃まで近郷近在の人々の信仰を集め、門前市をなすほどのにぎわいでした。


円福寺 薬師如来坐像日光菩薩立像・月光菩薩立像>
 薬師如来坐像は、光背を含めると二メートルをこえ、日光・月光菩薩を脇侍(わきじ)に優美な三尊形式をとります。左手に薬壺(やくこ)をのせ、病苦をいやし苦悩を除く十二の誓願(せいがん)を立て、十二神将を眷属(けんぞく)として配しています。
 寛保(かんぽう)三年(1743~江戸時代中期)の薬師女如来由来期によると三尊は仏師定朝(平安時代後期の人)の作とされていますが、定かではありません。開基匂坂(さきさか)氏衰退後、本尊・脇侍は損傷はなはだしくなり、幾度かの修繕を経て、現在のお姿になられたものと思われます。
 台座、脇侍の部分に初めての技法がのこり、造像当時の姿を偲ぶことが出来ます。


琵琶懸の松




 昔、目の不自由な琵琶法師が、ご利益のある薬師様ときき、目が見えるようにと、何日もお堂にこもって熱心に祈ったそうです。やがて満願の日がやってきました。こわごわ目をあけてみると、薬師様の姿がはっきりと見えるようになっていました。夢かと思い外を見ると境内に植えられた松の葉の緑が見えました。琵琶法師はあまりの嬉しさに、琵琶を松にかけたまま旅立ってしまいました。
 それからというもの、人々はこの松を、「びわかけの松」と呼ぶようになったそうです。






仁王門



山門




◆梅坂橋













続く。