先程の久左衛門坂のすぐ北側のエリア。
梯子坂からは南へ進み、スポットが固まってるエリアに入る。
◆永福寺
境内で何か作業していたので門の外からお参り。
◆東宝湯
坂道が急で、あたかも梯子を登るようであったため、梯子坂と名づけられた(『新撰東京名所図会』)
大聖院文書
大聖院に伝来する古文書・古記録類で、宝暦元年(1751)から明治四年(1871)におよぶ二巻五冊一葉である。
内容は、大聖院と別当寺をつとめていた西向天神の由緒に関するものが多いが、文政七年(1824)の「東大久保村地誌書上帳」や境内にある紅皿の碑に関する「紅皿縁起」なども含まれている。
点数は少ないが、残存する古文書の皆無な大久保地区にとっては貴重な史料である。
太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女・紅皿の墓と伝承される中世の板碑(1基)、燈籠(2基)、水鉢(1基)、花立(2基)から構成される。
板碑は区内で唯一のものとなる中世の十三仏板碑である。また、板碑の前には12代守田勘弥や歌舞伎関係者により石燈籠等が立てられ、その存在が広く知られるようになった。
伝説では、太田道灌が高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ鷹狩に来てにわか雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立ち寄った。その家の少女・紅皿は、庭の山吹の一枝を差し出し、『御拾遺集』の中にある「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」の歌にかけて、雨具(蓑)のないことを伝えた。後にこれを知った太田道灌は歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。
紅皿の墓とされる伝承が江戸時代中頃成立、展開し、幕末維新期を経て広まっていく様子を知ることができ、伝承、文献も含めた史跡として位置づけられ貴重である。
神楽殿
◆東大久保富士
中には入れなかった・・・・・。
山開きはあるのかな?
続く。