両国駅北側エリアを散策する。
こんなに史跡があったんだ・・・・。
何度も歩いたところなのに新し発見がたくさん。
◆旧安田邸
刀剣博物館3Fテラスから撮った写真。
中には入らなかった。
こちらの庭園も以前来たことがある。
ovanrei.hatenablog.com
◆小林清親旧居地
明治の浮世絵版画家で、最後の浮世絵師ともいわれる小林清親は、江戸本所の御蔵屋敷で生まれ、この辺りで暮していました。
七人兄弟の末子で、明治維新の際は大阪や静岡などを転々としますが、その後、帰京し、洋風木版画の「東京名所図」を出版しました。その西洋風の画風が「光線画」として人気となり、浮世絵版画に文明開化をもたらしたといわれています。
明治十四年(1881)の両国の大火後は、光線画から遠ざかり、「清親ポンチ」というポンチ絵を描くようになり、その後、錦絵の衰退により肉筆画を多く描くようになっています。近世から近代への絵画の変遷を体現した画家といえるでしょう。
歯科界の黎明期に 本所歯科医師会は 入江義次 五十嵐庭治君等の提唱で 口腔衛生普及運動を起した その始は奥村鶴吉 加藤清治 川上為次郎 岡本清纓 高津武の諸先生に依頼して 当時の本所高等小学校(現墨田区立両国中学校) で区内学童の口腔診査を実施した 会員の積極的活動とライオン歯磨の後援によってこの運動は 日本歯科界最初の企画として当時の新聞に報道された この時学童数名を選び 表彰状と「良い歯の碑日」と記したメダルを贈った 大正十四年(1925年)十一月七日のことである 本会の唱導は多くの反響をよび 後年「ムシ歯予防デー」として発展するところとなった 本会発足五十周年に当り国民保健向上の一齣であるこのことが 永く後世に伝わるように この碑を記念事業として建てるものである
ライオン!
すごいことを成したんだね!!
従来この地域は業平橋幹線を経由して三之橋ポンプ所から竪川に放流していました。
しかし、近年、都市構造及び生活様式の変化に伴い、雨水の流出量が増大し、昭和56年~58年にかけて浸水被害が多発したため、緊急な対策が望まれ、新たなポンプ所を江東市場跡地に建設することになりました。
建設に当たっては、将来の都市景観と周辺の国技館、旧安田庭園などに調和したものとするため、「東京江戸博物館」と合築構造とし、上部については、同博物館が利用することになりました。
こ・・・江東市場!?
で、調べてみた。
昭和10年に開場し、昭和59年に廃止・・・。
情報元↓
www.shijou.metro.tokyo.jp
また一つ歴史の勉強になった。
JR両国駅から横網町公園にかけての範囲には、江戸時代、本所御蔵という幕府の御米蔵がありました。現在の江戸東京博物館、墨田区立両国中学校、日本大学第一中学・高等学校、国技館の一部も御蔵の敷地内に含まれています。享保十九年(1734)、四万四千坪(約14万5千㎡)の広大な敷地に、十二棟八十八戸前の倉庫群が造られ、御米蔵として使われ始めます。安政五年(1858)までには三十七棟二百四十六戸前にもなる増築がなされました。絵図を見ると、蔵の建物の間には隅田川から導かれた舟入の堀が設けられていたことがわかります。本所御蔵は、俗に「御竹蔵」とも呼ばれました。
平成十三年(2001)、現在のNTTドコモビル建設工事の際、事前に発掘調査が行われました。その結果、御蔵の一部と考えられる掘割や護岸の跡が見つかり、徳川家の家紋である三葉葵紋の瓦も出土しています。また、近代の建物跡と、「陸軍被服廠」と書かれた木製の荷札がまとまって見つかりました。本所御蔵は明治五年(1872)に廃止され、跡地には陸軍被服廠(衣料品を取り扱う施設)が置かれましたが、こうした荷札群の出土は珍しく、当時の物資輸送事情を物語る貴重な資料と考えられています。
本所御蔵があった範囲内では、他の地点でも杭柵護岸や、近代の石組護岸や橋脚などが確認されています。両国中学校と横綱町公園の敷地の一部からは、江戸時代の陶磁器などが出土しました。
◆徳川家康像
鷹狩の雄姿で江戸城を望んでいる徳川家康公が始めて、草深い江戸の地に天正十八年(1590年)に、豊臣秀吉の命により国替えとなった。
そして、関ヶ原の戦い後慶長八年(1603年)征夷大将軍となり江戸に幕府を開き天下普請を大名に命じ、本格的な都市づくりの大事業を行い、政治の中心地として明治に至
るまでの永き亘って現在の東京の基礎となったことは周知の事実である。
社団法人 江戸消防記念会では、このような、江戸開府の大事業を成し遂げた徳川家康公の偉業を称え、顕彰すべく銅像建立の計画を練っていたところ、平成五年三月、江戸東京博物館が両国の地に落成の運びとなるや、徳川家康公銅像建立機運が一気に盛り上がり記念会創立以来の名誉ある事業であることから、これを積極的に推進し、東京都をはじめ関係諸機関に格別のご協力をいただきまして、江戸消防記念会が主体となって平成六年四月銅像を建立、東京都に寄贈したものである。
続く。