2018/12/13 両国散歩 08 本因坊屋敷跡/塩原太助炭屋跡/前原伊助宅跡/吉良邸裏門跡/江東義塾跡/塩原橋

やはり両国駅南側エリア。
10Mに一つの間隔で説明板などあるんじゃないだろうかと思うくらいたくさんある。



本因坊屋敷跡




 ここに本因坊屋敷跡がありました。本因坊家は、囲碁の名門で、織田信長豊臣秀吉徳川家康の三人に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系で名棋手を輩出してきました。「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光時の塔頭の一つに由来しています。
 もともとその拝領地は芝金杉にありましたが、幕府に接収されたためその代地として寛文7年(1667)この場所が屋敷となりました。江戸期を通じて、常に囲碁四家元(他に安井家、井上家、林家)の筆頭の地位にあり、道策・丈和・秀和・秀策などの棋手を生んでいます。
 特に江戸末期の秀策は、史上最強の棋士として「棋聖」と呼ばれました。
 現在は、実力制で争われる多くのタイトル戦のさきがけとして名が残っています。



◆塩原太助炭屋跡




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前原伊助宅跡



 この辺りに、前原伊助宅がありました。
 伊助は、赤穂浪士四十七士の一人で、浅野家家臣前原自久 の長男として生まれ、延宝四年(1676)に家督を継ぎます。金奉行として勤仕したため、商才に長けていました。
 浅野内匠頭の刃傷事件後は江戸急進派として単独で別行動を取りました。初めは日本橋に住んでいましたが、やがて吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移り住み、「米屋五兵衛」と称して店を開業し、吉良家の動向を探りました。その後、大石内蔵助と行動をともにしました。
 討ち入りの直前には、亡君の刃傷事件から討ち入りまでの経過を漢文体で克明に書き綴った「赤城盟伝」を著しています。




◆吉良邸裏門跡




 吉良邸の裏門はこの辺りにありました。
 赤穂浪士 討ち入りの際、裏門からは大石主税 以下二十四名が門を叩き壊して侵入、寝込みを襲われ半睡状態に近い吉良家の家臣を次々と斬り伏せました。吉良家にも何人か勇士がいましたが、寝巻き姿では鎖帷子を着込み完全武装赤穂浪士には到底敵わなかったようです。
 広大な屋敷の中で一時間余り続いた討ち入りは、壮絶なものでしたが、吉良家側の死傷者が三十八名だったのに対し、赤穂浪士側は二名が軽い傷を負っただけでした。




◆江東義塾跡

吉良邸裏門跡の上側の写真右側にこの説明板が写っている。
歩いているときは全然気が付かなかった。
写真はWEBでさがしたものである。



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◆塩原橋










 塩原橋は関東大震災の復興事業の一つとして、昭和3年(1928)11月に架けられました。当時は木橋でしたが、昭和29年(1954)3月、現在の鋼桁橋に架け替えられたものです。
 橋名は江戸時代の末「本所には過ぎたるものが二つあり、津軽大名炭屋塩原」と謳われた塩原太助がこの辺りに住んでいたことから、それに因んで付けられたものです。
 太助は上州(群馬県)沼田から江戸に出て薪炭商人として成功した人ですが、その立志伝は明治の初め、南二葉町(亀沢3丁目)にすんでいた三遊亭円朝によって人情話に仕立てられ、その後浪花節や演劇にもなりました。歌舞伎の「塩原多助一代記」は明治25年(1892)に初演され、愛馬の別れで大変な評判をとったそうです。
 天明元年(1781)当時、本所相生町(両国3丁目)に住んでいた太助が、亀戸天神に寄進した燈籠は今も境内に残っています。



続く。