2018/12/13 両国散歩 09 烏亭焉馬居住の地/竪川/出羽海部屋/井筒部屋/大徳院/元町跡

両国駅南側エリアを今度は北上し駅の方に向かう。
そういえば、説明板に番号振ってあるけど、それだけの説明板があるってことなのかな?
たぶん、もうないのもあるはず。


烏亭焉馬居住の地




 烏亭焉馬は江戸時代中期に活躍した戯作者、狂歌師で、江戸落語を中興した人物です。本名は中村英祝、通称を和泉屋和助、居住地にちなみ立川焉馬とも名乗りました。寛保三年(1743)に本所相生町三丁目(現墨田区両国四丁目)に生まれ、文政五年(1822)に亡くなるまで堅川沿いに住まいを構えたることから、太田南畝(なんぽ)は『太平楽紀文』の序文で、「相生町のはへぬき」と呼びました。焉馬の父は大工棟梁、兄も山形庄内藩お抱えの棟梁でした。焉馬も幕府小普請方の大工棟梁を努めました。演劇や茶番に通じ、俳諧狂歌を嗜むなど兆人としては余裕のある暮らしぶりでした。隠居の後は町大工棟梁として采配を振るい、家族は足袋屋や香堂を営み、さらにゆとりが増えます。多くの文人と交流があった焉馬は、その人脈をもとに精力的に活動します。まず、作品として両国の見世物を題材とした滑稽本や、現在でも上演される人気演目「碁太平記白石噺」などが発表されます。
 天明六年(1786)、向島の料亭武蔵屋にて「落噺(おとしばなし)の回」が行われました。焉馬の狂歌師仲間や競演作者たちが百人余り集い、その中には焉馬が贔屓にする九代目市川團十郎もいました。その後、焉馬の自宅などで定会(月例会)が開かれるようになり、鹿野武左衛門以来途絶えていた落語が復活しました。この流れから初代三笑亭可楽(からく)や初代三遊亭圓生(えんしょう)らの職業落語家が誕生し、現在に伝統をつないでいます。ゆえに焉馬は、江戸落語中興の祖と呼ばれています。
 現在、牛島神社の境内にある焉馬の狂歌碑(墨田区登録有形文化財)には「いそがずば濡れましもの夕立ちのあとよりはるる堪忍(かんにん)の虹  談洲楼(だんしゅうろう)烏亭焉馬」、裏面には「文化七歳庚午三月吉日建 本所堅川相生街 中村和助英祝」と刻まれています。 



 

◆竪川




 本所開拓の第一歩は、両国橋の架設と、竪川をはじめ横川(大横川)、十間川(横十間川)、北十間川、南・北割下水などの河川の採掘に始まった。北斎富嶽百景に見られる本所の竪川は、万治2年(1659)に掘られてもので、当時、江戸城から見て縦に通じている所から竪川と称したといわれる。竪川の最初の目的は排水のためであったが、のちに隅田川と中川とを連絡する水路として輸送交通に大いに利用され、河岸には材木屋も多く木場の続きともなっていた。
 その規模は「葛西誌」によると「竪川の長一里八町四十八間といふ。川幅は凡二十間なり。」とあり、当時長さは約4.9Km、幅はヤク36mで、両岸の水除土手は、土手敷が9.1~12.7mということであった。現在の竪川は延長5.15Kmそのうち本区画内の延長は2.68km、平均幅員36mとなっている。





出羽海部屋




 師匠は、十一代・出羽海昭和(元小城ノ花)。
 出羽海部屋は、現存する部屋では最多の九人の横綱を輩出したほか、三人が相撲協会理事長を務めるなど、相撲界の名門中の名門、十二部屋からなる出羽海一門の中心です。
 その歴史は古く、初代・出羽海は、天明から寛政年間(1781~1800)に活躍した前頭筆頭・出羽ノ海金蔵(のちに、運右衛門)で、年寄資格を得て、出羽ノ海部屋を創設しましたが、文化五年(1808)に部屋はいったん閉じられたとされます。
 現在の出羽海部屋は、文久二年(1862)、桂川立吉が出羽ノ海を襲名、出羽海部屋を創設したもので、以来、今日まで連綿と継承されてきています。
 大正六年(1917)一月場所から大正十年(1921)五月場所まで、十番所連続で出羽海部屋所属力士が優勝(栃木山5回、大錦4回、常ノ花1回)していますが、これは現在でも破られていない大相撲記録です。



井筒部屋



 師匠は、十四代・井筒好昭(元関脇・逆鉾)。 
 明治時代、七代、井筒(第十六代横綱・初代西ノ海)によって創設。昭和十九年(1944)九月、九代・井筒の死去に伴い一時消滅。
 昭和二十二年(1947)六月、元幕内・鶴ヶ峰道良が十代・井筒を襲名し、井筒部屋を再興しましたが、昭和四十九年’1974)四月、十一代井筒は井筒の年寄名跡を返上、陸奥を襲名、陸奥部屋へ名称変更し、井筒部屋は再度消滅しました。 同年七月、九重部屋所属の第五十二代横綱北の富士が引退、十二代井筒を襲名、九重部屋から分家独立して井筒部屋を創設しましたが、昭和五十二年(1977)十一月十一代・九重の死去に伴い十二代・九重を襲名、九重部屋を継承したため、井筒部屋の名称はここでも一時消滅しました。
 翌月の同年十二月、君ヶ瀬親方(元関脇・鶴ヶ峰)は、昭和四十七年(1972)、井筒部屋から分家独立、君ヶ瀬部屋を創設していたが、十三代・井筒昭男を襲名、部屋名称を井筒部屋に変更し、今日に至っています。



大徳院




大徳院は、高野山真言宗のお寺です。 徳川家康によって、文禄三年(1594)に和歌山県高野山に開かれました。 高野山を開いた弘法大師の「大」と徳川家の「徳」をとって「大徳院」と称しました。 それ以来、徳川家の勢力を背景に、全国に末寺ができましたが、大徳院は諸国末寺の総触頭として、寛永年間(1626~1639)神田紺屋町に屋敷を拝領し、寛文9年1666本所猿江に移転の後、貞享元年(1684)2月、2000坪の土地をこの地両国に拝領し、移転しました。
 本尊は薬師如来で、俗に「本所一ッ目の寅薬師」といわれ、眼病治癒に効き目があったことで信仰されていました。 また、宝暦年間(1751~1764)に開かれた御府内八十八ケ所霊場の第五十番札所になっています。



◆元町跡



 両国橋の東詰めにあった町名です。現在の両国一丁目あたりで、この一帯で最初に開かれた町屋なので元町といいます。町内は四つに分かれていますが、総坪数は三千二百六十三坪でした。
 寛文十一年(1671)の切絵図には回向院門前「ちゃや」、墨田区沿いに「ざいもく」などの記載があり、門前町として賑わっていたことがうかがわれます。
 十万人を超える死者が眠る回向院には、墓参のため、身分や年齢を問わず、多くの人々が訪れ、両国橋から回向院に向かう通りは、回向院参道としておおいに賑わっていました。



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一度来ていた。




続く。