2018/12/13 両国散歩 10 春日野部屋/回向院正門跡/回向院/旧国技館跡/どすこいドリンク/領国二丁目緑地広場

やっと両国駅に戻ってくる。
大した距離は無かったのに、写真はものすごい量になった。



春日野部屋
 



 
 師匠は十一代・春日野清隆(元関脇・栃乃和歌)。
 大正十四年(1925)五月、第二十七代横綱栃木山(八代・春日野剛也)が、出羽海部屋から分家独立し、創設しました。
 昭和三十四年(1959)10月、八代・春日野の死去に伴い、部屋所属の第四十四代横綱栃錦が現役のまま九代・春日野を襲名、部屋を継承し、昭和三十五年(1960)、現役を引退するまでの間、二枚鑑札で部屋経営にあたりました。また、九代・春日野は、昭和四十九年(1974)から昭和六十三年(1988)まで日本相撲協会理事長を務めました。
 平成二年(1990)1月、九代・春日野の死去に伴い、部屋付の中立親方(第四十九代横綱栃ノ海)が部屋を継承、十代・春日野晃将を襲名しました。
 平成十五年(2003)2月、十代・春日野の定年退職に伴い、部屋付の竹縄親方(元関脇・栃乃和歌)が十一代・春日野を襲名し、部屋を継承、今日に至っています。



◆回向院正門跡
 


 
 回向院の正門は、かつてこの位置にありました。回向院の伽藍は東京大空襲で焼失しましたが、戦後、再建され、正門は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。
 かつての回向院正門は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができました。両国橋があたかも回向院参道の一部を成しているかのようで、明暦の大火による焼死者10万人以上を埋葬する回向院の社会的な存在意義を表したものともいえます。
 両国橋や回向院正門に至る広小路や元町の賑わいは、北斎画「絵本墨田川両岸一覧(両国納涼)」などに描かれています。



◆回向院
 



 
 明暦三年(1657)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は10万人以上、その多くが身元不明、引取り手のない有様でした。そこで4代将軍家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。
 有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政地震関東大震災東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、災難事故による溺死者、遊女、水子、死刑者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。



力塚
 



 
 墨田区と相撲の関わりは、明和五年(1768)九月の回向院における初めての興行にさかのぼります。以後、幾つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。
 天保四年(1833)十月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に2度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。 
 明治時代に入っても、相撲興行は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治十七年(1884)に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして、明治四十二年(1909)に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。
 力塚は、昭和十一年(1936)に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正五年(1916)に建てられた角力記と法界万霊塔もこの中に移動しました。
 現在は、相撲興行自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の歴史が76年にわたり刻まれ、現在もなお相撲の街として両国の姿を象徴しています。




鼠小僧供養墓




「教覚速善居士」「道一書」
   裏面には「大正十五年(1926)十二月十五日建立」
   左側には「永代法養料金 五拾園也 細川 仁三」と刻まれている

 鼠小僧は寛政九年(1797)生まれの実在の盗賊であり「武江年表」によると天保三年(1832)八月十九日に浅草で処刑されている
 「甲子夜話」によれば 武家屋敷にのみ押し入ったため 庶民からは義賊扱いされていると記されている 後に幕末の戯作者 河竹 黙阿弥が 権力者である大名家に自在に侵入し被権力者側である庶民に盗んだ金を配るという虚構の鼠小僧を主人公とした作品を世に送り出したことから人気に火がつき演劇界においては 現在まで続く当り狂言の一つとなった
明治十二年(1879)一月の「朝野新聞」によると歌舞伎の市川一門の一人である 市川 団升が 狂言が当った礼として碑と永代供養料10円の寄付を行うほどの熱の入れようであったと伝えており 施主として刻まれ 墓の横にも石灯籠を寄進している
細川 仁三とは市川 団升のことであるとみる説もある
文学界においても芥川龍之介が「戯作三昧」・「鼠小僧次郎吉」・「復習」と3度題材に取り上げるなどとしており 虚構の鼠小僧の人気は高い
江戸時代 犯罪者には墓を作ることが禁止されていた しかし歌舞伎や狂言での成功によって 祈願対象物としての墓の必要性が生じこの供養碑が作られたと思われる
※他方 供養墓の前にある小さな供養碑は正面に供養墓同様「教 覚 速 善 居 士」と刻まれているが別名「欠き石」とも呼ばれるものである
鼠小僧の墓石を欠き 財布や袂に入れておけば 金回りが良くなる あるいは持病が治るとも言われ 成就した人々の奉納した欠き石は数年ごとに建て替えられ続け 現在までに数百基にも及んでいるという
発生時期は不明であるが 明治十八年(1885)に初演された 河竹木阿弥の「四千両小判梅集」には台詞の中で この信仰の事が触れられている
 
「この供養碑は変貌著しい墨田区と歌舞伎とのかかわりを示す資料でもあり ここには また庶民のささやかな幸福追求の対象物としての価値も含まれる」



猫の恩返し




 猫をたいへんかわいがっていた魚屋が、病気で商売ができなくなり、生活が困窮してしまいます。すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてき、魚屋を助けます。
 ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で、二両くわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。
 江戸時代のいくつかの本に紹介されている話ですが、本によって人名や地名の設定が違っています。江戸っ子の間に広まった昔話ですが、実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられます。





岩瀬京山墓

 江戸時代の著名な戯作者である山東京伝の弟で同じく戯作者である。名を百樹といい、字を鉄梅といった。鉄筆堂は号で、通称は利一郎、のち京山と改めた。はじめ篠山侯に仕え、のちこれを辞して、兄京伝の業を継ぎ、やがて剃髪して凉山と号した。著書には「稗史小説」「蜘蛛の糸巻」その他がある。安政五年(1858)九月二十四日流行病コロリ(コレラ)にかかって歿した。
 なお、兄京伝の墓を建てたのは京山である。方半居士、覧山の列号がある。



岩瀬京伝墓

 江戸時代の著名な戯作者。名は醒、字は酉星。京橋南伝馬町に住んでいたため号を京伝とし、愛宕山の東に当ることにちなんで山東といった。彼は深川木場の質屋に生まれ、若くして浮世絵を北尾重政に学び、北尾政演の撫で黄表紙のさし絵などを描いた。「御存商売物」が蜀山人に認められ、「江戸生艶気樺焼」によって一躍黄表紙作家として広く知られるようになった。さらに「令子洞房」で洒落本作家としての地歩を築いたが寛政三年(1791)風俗を乱すものとして手鎖50日の刑に処せられ、以後読本作家に転じた。著書には「仕懸文庫」「孔子縞干時藍染」「心学早染草」「傾城買四十八手」「近世寺跡考」「骨董集」その他多い。文化十三年(1816)九月七日歿。年五十七。




加藤千蔭墓

 江戸中期の国学者歌人。芳宜園と号し、千蔭は名。耳梨山人、逸楽窩、江翁などとも号していた。通称加藤又左衛門といい、能因法師の末裔だという。父は江戸の与力として波長暴利に住み、千蔭は父から歌を学んだ。また賀茂真淵に師事し、のち父の職を継いだ。天明八年(1788)病気のため職を辞し、学問研究に専念した。老境に入っていよいよ研さんを積み、著書は世に千蔭本と呼ばれて流布した。博識をもって世に知られ、かつ著書「万葉解」は高く評価されて幕府から賞されたという。また、絵を建部綾足に学び人びとは争ってこれを求めたという。文化五年(1808)九月二日歿。年七十五。著書には「万葉集略解」「万葉新採百首」「香取日記」その他多い。


石造明暦大火横死者等供養塔

 明暦三年(1657)一月、江戸市中の繁華街を焼いた有名な明暦の大火による焼死者・溺死者をはじめとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために造立されたものである。
 もと、回向院本堂の向って右に存した三仏堂の前に建てられていたが、堂舎の位置がその後移転したにもかかわらず、この供養塔の位置はほとんど動いていないものと思われる。
 総高3.0メートル、延宝三年(1657)頃建立された。願主は回向院第2世住持信誉貞存。


山門





◆旧国技館

左奥の建物群が跡地。
右側は回向院山門。



 相撲は、もともと神事であり、礼儀作法が重んじられてきました。現代の大相撲は、江戸時代の勧進相撲を始まりとします。回向院境内にある、「回向院相撲記」には、天保四年(1833)から国技館に開催場所が移されるまでの76年間、相撲興行本場所の地であった由来が記されています。
 国技館は、この回向院の境内に明治四十二年(1909)に建設されました。32本の柱をドーム状に集めた鉄骨の建物は大鉄傘とも呼ばれ、1万3千人収容の当時最大規模の競技場でした。日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾が設計を監修しました。
 相撲興行は、戦後もGHQに接収されていた国技館で行われました。しかし、メモリアルホールと改称された後は本場所の開催が許されず、明治神宮外苑や浜町公園の仮設国技館での実施を経て、台東区に新設された蔵前国技館における興行に至ります。一方、接収解除後のメモリアルホールは、日本大学講堂となりますが、老朽化のため昭和五十八年(1983)に解体されました。そして昭和六十年(1985)、地元の誘致運動が実を結び、JR両国駅北川の貨物操車場跡に新国技館が完成、「相撲の町両国」が復活しました。
 大鉄傘跡地は現在複合商業施設となっていますが、中庭にはタイルの模様で土俵の位置が示されています。 




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 旧国技館は、天保4年(1833)から回向院で相撲興行が始まったことから、明治42年(1909)に、その境内に建設されました。建設費は28万円(現在の価値では75億円程度)です。
 ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は1万3千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。
 東京大空襲まで、三度の焼失があり、戦後は米軍に接収され、返還後は日大講堂などとして利用されていました。昭和58年(1983)に解体されました。
 左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。




◆どすこいドリンク

たしかに太っ腹な値段(w




◆領国二丁目緑地広場



◆旧・立浪部屋

google mapに載っていたので来てみた。
特に説明板などは見当たらなかった。





最後は両国駅に戻って来てゴール。
今回は中身が濃かった・・・・。
覚悟はしていたんだけど、ここまでだとは思わなかったなあ。
整理するのが大変だったよ。
そのうち駅東側を散策する予定だけど、気が重い(w