2018/12/20 本所散歩 01 両国駅/本所松坂町公園/千歳橋/二之橋/小林一茶居住の地/葛飾北斎本所立川

24時間勤務アケで、両国から本所吾妻橋駅まで歩く。
12/13 の両国散歩で中に入らなかった本所松坂町公園に寄って東へ進む。


両国駅

スタートのJR総武線両国駅



◆本所松坂町公園(吉良邸跡)

吉良上野介義央公。


吉良上野介義央公座像建立の経緯

 平成二十一年六月、吉良邸跡保存会の会合で、吉良上野介像を製作、園内に設置しようとの提案があり、当両国三丁目町会長市川博保氏、吉良邸跡保存会長山田繁男氏及び両国三丁目町会顧問岡崎安宏氏の三者で検討、その結果、時代の推移と共に吉良公への歴史的認識とその評価が変わってきたこの時期に、大変に意義あることと考え、製作を決定する。
 岡崎安宏氏の知人で横浜在住の造形作家米山隆氏に製作を依頼し、製作に当っては岡崎安宏氏が監修、企画協力を山田繁男氏が担当する。
 愛知県吉良町に吉良家の菩提寺華蔵寺があり、1690年頃吉良上野介五十歳の時、自らが造らせたと言われている寄木造り(檜材)の座像が現存している。姿、形についてはこれをモデルに、そのほかは愛知県歴史編纂委員会の調査資料を参考にする。
 吉良上野介の位は従四位上なので束帯は黒、後襟袍の下に緑、藍、紅、白の襟があらわされている。表襟は白色で、左手に太刀、右手に朱塗り平板の笏を持ち正面で足裏を合わせて座す。頭部に巾子冠を被り、頭髪は黒一部白髪である。
 据え付けた台座は御影石を使用する。本像製作に当たって、両国三丁目町会、吉良邸跡保存会、東京両国ライオンズクラブが資金提供を行い、平成二十二年十二月十二日に墨田区へ寄贈する。
 また、本像の上屋については、愛知県吉良町(現西尾市吉良町)が、吉良上野介義央公座像建立に感銘をうけ建設し、様式については、園内の修景に配慮した茅葺屋根、無垢の木材を用いた温かみのある設えとする。
 平成二十三年三月に吉良邸跡保存会を通じて墨田区へ寄贈する。




 「松坂稲荷」は「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したものです。「兼春稲荷」は徳川氏入国後、現今の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置かれし当時、其の水門内に鎮座せしもので元禄15年の赤穂浪士討ち入り後、吉良邸跡へ地所清めのために遷宮され、昭和10年に既存の「上野稲荷」と合祀され、当本所松坂町公園開園と共に当初に鎮座されました。




吉良邸跡/みしるし洗いの井戸



 吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西七十三間、南北三十五間で、面積は約2千550坪(約8400平方メートル)だったとされています。現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎません。
 吉良上野介が隠居したのは元禄十四年(1701)3月の刃傷事件の数ヵ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所二ツ目に新邸を与えています。現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎません。この公園内には、吉良上野介座像、邸内見取り図、土地寄附者リストなどの他、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。




葛飾北斎 新板浮世絵忠臣蔵 第十一段目

元禄赤穂事件」を描いたシリーズの一枚です。当時の人形浄瑠璃や歌舞伎の演目にも盛んに取り入れられた「仮名手本忠臣蔵」の大詰め、吉良邸への赤穂浪士討ち入りの場面が浮世絵の様式で描かれており、軒先や建物のラインが奥行きを感じさせます。赤穂浪士に囲まれて孤軍奮闘しているのは、吉良側の剣豪、小林平八郎と思われます。この夜吉良上野介を護って討ち死にした小林平八郎は、自分の曽祖父であると、北斎自ら語っていたそうです。




赤穂義士遺跡 吉良邸跡






 この公園は「忠臣藏」で広く知られる、赤穂義士の討入があった、吉良上野介義央の上屋敷跡です。
 その昔、吉良邸は松坂町一、二丁目(現、両国二、三丁目)のうち約8400平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならび、いまではそのおもかげもありません。
 昭和九年三月地元町会の有志が、遺跡を後世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史蹟公園として、東京市に寄付したもので、昭和二十五年九月墨田区に移管されました。
 周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した造りで、園内には、元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などの遺蹟があり当時をしのばせております。また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されております。





◆千歳橋










◆二之橋











 万治二年(1659)、堅川が開削されると五つの橋が架けられ、隅田川に近い方から一之橋
から五之橋と名付けられました。その二ツ目の橋で、長さ十間(18メートル)、幅三間(5.4メートル)ほどありました。
 池波正太郎の「鬼平犯科帳」では、二之橋は「二ツ目橋」という名で数多く登場します。鬼平が事件を解決するなかで、弥勒寺門前のお熊婆のいる茶店「笹や」へ行くにも、大川から舟で乗付けて軍鶏なべ屋「五鉄」に立ち寄るにも、この橋は必ず登場し、正に欠かせない場所となっています。
 現在の橋は平成十年(1998)に架橋されてものです。


一度来ていたが、説明板の字をおこしてなかった。
ovanrei.hatenablog.com




小林一茶居住の地




 江戸時代後期の俳人小林一茶は、宝暦十三年(1763)五月、信濃国水内郡柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)で本百姓小林弥五兵衛の長男として生れました。本名は小林信之、幼名は弥太郎といいます。
 三歳で母くにと死別し、八歳のとき迎えた継母とは不和となり、一茶の生涯と作品に大きな影響を与えました。十五歳の時に江戸へ奉公に出て、苦労多い生活の中で俳諧に親しみます。やがて葛飾派の溝口素丸(そまる)や小林竹阿(ちくあ)に師事し俳諧を学び、各地を巡歴しながら、多くの俳人と交流し俳諧への理解を深めていきました。
 一茶は文化元年(1804)十月、それまで住んでいた本所五ツ目大島(現江東区大島)から本所相生町五丁目(現緑一丁目一番の一部および二・三番)の借家に移ります。家財道具が運び込まれた一茶は
    寝始る其夜を竹の時雨哉    (「文化句帖」より)
という句を詠んでおり、居宅の周辺には竹が植わっていたことがうかがわれます。一茶は五年ほどこの地を拠点に活動しましたが、文化五年十二月に旅から帰ると、留守中に借家が他人に貸し出されてしまっていました。
    行年を元の家なしと成りにけり (「文化五・六年句日記」より)
 以後弟子や講演者の家を転々とし、文化十年に故郷に戻りました。晩年は妻と三男一女の死、度重なるや病、住居の類焼などに悩まされながらも句を詠み続け、文政十年(1827)六十五歳で亡くなるまでの作品数は約二万句に及びました。
 主な著作に「父の終焉日記」、「七番日記」、「おらが春」などがあります。子供や小動物への慈愛に満ちた作品がよく知られていますが、自らの境遇、都市や農村の日常に生きる人々の姿、政治や社会に対する思いを平明な言葉で句に詠んでおり、当時の社会状況や日常生活の実情を今日に伝えるものとなっています。


こちらも前に来ている。
ovanrei.hatenablog.com




葛飾北斎本所立川

富士山を描いた「冨嶽三十六景」シリーズの一枚です。北斎が70歳ごろの版行です。
江戸時代、堅川の北側(旧相生町一丁目~二丁目付近)には、その水運を活かした材木屋問屋が密集していました。積み重ねられた材木の間から見える富士は、遠近法を得意とする北斎らしい構図です。右下の材木置き場には「西村置場」、その左右の材木には「馬喰町弐丁目」「永寿堂仕人」などの墨書があり、版元名とその場所、本シリーズ(「冨嶽三十六景」)の宣伝がさりげなく入っています。




続く。