2018/12/30 築地散歩 01 鍛冶橋交差点/千葉定吉道場跡/旧「片倉館」正面玄関メダリオン/弾正橋/京橋インター/新金橋

24時間勤務アケで、東京駅から月島まで歩く。
何度も歩いているはずなんだが、久々にこの辺りのgoogle mapを見るとイロイロ増えていた。
この日記のエリアは東京駅八重洲口から京橋方面へ散策。



◆鍛冶橋交差点

こちらは何度も写真撮っている場所だ。




千葉定吉道場跡 





 千葉定吉(?~1879)は、北辰一刀流剣術の創始者千葉周作の弟であり、自身も北辰一刀流の使い手と知られています。
 千葉周作は、文政五年(1822)に道場を品川町(現在の日本橋室町一丁目のうち)に開き、その後、神田お玉ヶ池(現在の千代田区岩本町付近)に移転をしました。玄武館と名付けられたこの道場は、江戸三大道場の一つに数えられるほどの隆盛を極めました。
 定吉は、兄周作の玄武館道場の隆盛に貢献した後、自らもこの地付近に「小千葉道場」などと通称される道場を開きました。
 定吉の名前は、嘉永六年(1853)十二月改正の絵図には新材木町(現日本橋堀留町一丁目のうち)に、嘉永七年正月改正の絵図には狩野屋敷と呼ばれていた(幕府置く江氏鍛冶橋狩野家の屋敷に由来)この地域に確認するとができます。
 嘉永六年、剣術修行のために江戸へ出てきた土佐藩坂本龍馬(1835~1867)は、定吉の門に入ったとされています。この時定吉は、鳥取藩池田家に仕官していたため、龍馬は定吉の息子千葉重太郎のもとで修業に励んだとも考えられています。また、安政三年(1856)に江戸へ再出府した際にも、定吉の道場で剣術修行を行い、安政五年正月には定吉から「北辰一刀流 長刀兵法」の目録を伝授されました。



お玉ヶ池の玄武官跡!
行ったことがある。
説明板が撤去されている場所だったっけ。
ovanrei.hatenablog.com





◆旧「片倉館」正面玄関メダリオン







京橋の歴史
 京橋という地名は、東海道日本橋 から京都に向かう際に最初に渡る橋が「京橋」と名付けられたことに由来します。この橋は江戸城外堀の鍛治橋御門付近から分流していた京橋川に架かっていました(地図1・写真1)。京橋川は、徳川家康 が関東に入府した慶長年間(1596〜1615年)に江戸城外堀とともに開削されたといわれ、現在、京橋地区と銀座地区の間にある首都高速道路の位置にありました。第2次世界大戦後、瓦礫処理のために京橋川は埋め立てられ、昭和34年(1959年)に「京橋」も取り壊されました。
 「京橋」の河岸地は竹材を扱う問屋が多くあることから竹河岸、または大根を中心とした野菜の荷揚げ市場であったことから大根河岸を呼ばれ、多くの商人や職人が住んでいました。この敷地も江戸時代から昭和初期までは畳町および南傳馬町と呼ばれ職人の町として栄えました。東京スクエアガーデンでは、その当時より通りであった場所を歩行者専用の貫通通路として整備し、人々が自由に通行できるようにするとともに、当時のまちの面影を残しています。また「東海道五十三次」などで知られる歌川広重嘉永2年(1849年)から安政5年(1858年)までの晩年は現在の京橋一丁目に居を構え、「名所江戸百景」の中で「京橋竹がし」を情緒豊かに描きました(絵1)。
 明治時代に入ると明治5年(1872年)に発生した大規模な大火を契機として、火事に強い煉瓦を用いた西洋風の建物に建て替えられていきました。明治36年1903年)には中央通りに路面電車が通り、続いて大正9年1920年)には鍛治橋通りに路面電車が通りました。大正12年(1923年)の関東大震災後に行われた帝都復興事業(写真2)の区画整理により、昭和6年(1931年)に畳町や南傳馬町などが京橋という地名に生まれ変わりました(地図2)。その後、日本初の地下鉄である銀座線が開通し、昭和7年(1932年)には京橋駅が開業しました。路面電車は昭和42年(1967年)まで人々の足として活用されました(写真3)。



片倉館
 この地には片倉製糸紡績株式会社(現片倉工業株式会社)の本社ビル「片倉館」が建設されました(写真4)。片倉館は大正11年(1922年)9月に概ね第1期工事が完成し、その後増築も行われ、平成22年(2010年)まで現役のビルとして使用されました。建物の構造は鉄骨鉄筋コンクリート造、規模は地上7階、地下2階、塔屋2階、延べ面積9.796m2でした。外壁は1階の基壇部に花崗岩が用いられ、基壇上部や上層部には装飾を施した西洋風建築でした。
 この銘板の裏のメダリオン(楕円形の装飾物)およびこの植栽帯の道路側に据えられたコーニス(壁上部の装飾的突起部)は平成25年(2013年)に竣工した東京スクエアガーデンを開発する際に、片倉館の正面玄関付近で用いられていた実物を取り外し、地域の歴史を語る意匠としてこの位置に保存したものです。またこの銘板の足元の外構舗装材の一部も片倉館の外壁石材として使用されていたものです。









◆弾正橋   





 弾正橋は古く江戸寛永年間には既に、楓川上にかかっているのが記されており、北八丁堀に島田弾正少弼屋敷があったのがその名の由来のようである。弾正橋は当時交差した堀川上に真福寺橋、白魚橋と共に三つの橋がコの字状に架けられていたことから、江戸名所図会に「三ツ橋」として紹介されており、江戸における一つの名物であったようである。
 その後たびたび架替えられたが、明治11年1878年)に工部省の手により、我が国最初の国産の鉄を使った橋として架替えられた。その時の橋は現在でも江東区富岡1丁目に保存され、昭和52年(1977年)に国の重要文化財として指定され、平成元年(1989年)にはアメリカ土木学会の栄誉賞も受ける等その歴史的貴重さを増している。
 現在の橋は大正15年(1926年)12月に復興局によって架替えられたもので、従来の弾正橋よりやや北側に位置している。その後昭和39年(1964年)の東京オリンピックの時に、弾正橋の西側に公園が造成され、平成5年(1993年)2月に公園と一体化された。くつろぎのある橋として再整備された。尚、公園にあるモニュメントは、明治11年1878年)、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものである。




江東区に移された「弾正橋」、見に行ったことがある!
ovanrei.hatenablog.com



◆京橋インター  




◆新金橋
  




下は高速道路。



続く。