2018/12/30 築地散歩 06 工学院大学学園発祥之地/築地場外市場/築地市場跡/聖路加国際病院/立教女学院築地居留地校舎跡記念碑/佃島砲台跡

一度築地に行き、佃大橋を渡って月島に向かう。




工学院大学学園発祥之地(あかつき公園内)




明治二十一年我国工業の黎明期に当り, 此地に工手学校が創設された。爾来工業界の各分野に有能な技術者を送った数は実に三萬を超えその発展に多大の貢献を致した事は周知である
関東大震災の後昭和三年出身者の熱意と努力により新宿に宏壮な校舎が建設され校名も工学院と改められ, 時世の進運に則して終始発展充実を続けて来た。更に昭和二十四年に至り学園に工学院大学が設立され最高の工業教育機関として工業報国の伝統精神を発揚しつゝある。
近く創立七十周年を迎えんとし先輩の遺徳を偲び後進の発奮を促すため有志相図り学園発祥の地に記念碑を建てる





築地場外市場




火事で焼けてしまった所は架設で頑張ってるみたいだね。






築地市場

ああ・・・・本当に無くなるんだね。。。。。




聖路加国際病院

この付近は一度散策している。
でも、見落としていた場所があったようだ。
ovanrei.hatenablog.com





立教女学院築地居留地校舎跡記念碑

 立教女学院は1877年キリスト教に基づく女子教育を目的に、米国聖公会により派遣されたC.M.ウイリアムズ主教によって、湯島に創立された。1882年立教女学院は築地居留地に移転して、新校舎を建設し、1923年の関東大震災までこの地にあってその教育事業を継続した。立教女学院のキャンパスは現在久我山にある。


まさかこの前行った立教女学院の発祥の地がここにあったとは!
礼拝堂にお邪魔させていただいた。
ovanrei.hatenablog.com




佃島砲台跡




 江戸時代末期、佃島 の南に位置するこの場所には、外国船の渡来に対処するための海防施設「砲台 」が築かれました。
 江戸防衛・海防策の一環で砲台が築造されたのは、嘉永六(1853)年六月にアメリ東インド隊司令長官ペリー が4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本の開国・貿易港の開港などを求めた出来事が契機でした。ペリー来航から2か月後の同年八月、幕府は非常事態に備えて品川沖に江戸防衛用の台場 (砲台)築造を始め、翌年十一月までの短期間に「第一~第三・第五・第六・御殿山下」の六基(品川台場)を完成させました。
佃島の南に砲台が築かれたのは、品川台場の築造から約10年後の元治元年(1864)のことでした。砲台新設の契機となったのは、文久三年(1863)に勃発した薩英戦争 や元治元年の四国(英・米・仏・蘭)連合艦隊による下関砲撃事件 などの出来事でした。幕府は、より強固な江戸湾防備体勢を敷くため、品川から越中島までの間に新たに海岸砲台の設置を計画し、佃島砲台もその一つとして築造されました。
 佃島砲台の規模は「東京市史稿」の「東京通志」によると「京橋区佃島南端海中ニアリ。東西凡三拾九間(約70メートル)、南北凡四拾間(約72メートル)、面積凡千三百七拾坪。元治元年甲子幕府之ヲ築キ、明治に至リ修理ヲ加ヘ、陸軍省ニ属ス」とあります。
 明治期には、陸軍省 所管の砲台となりましたが、明治二十年(1887)に始まった月島築造工事の際に、佃島砲台を基点として月島第一号埋立地 (現在の月島1~4丁目)の埋立が進められ、工事の過程でその姿を消しました。





この後は「もんじゃストリート」もんじゃ食べて飲んで、ぐでんぐでんになって帰るのだった(w
今回の散歩は一度来た場所なのに新しい発見がいっぱいあり楽しかった。
職場から近いのでまた付近を散策してみようと思う。