2018/01/07 四ツ谷散歩 02 泉鏡花旧居跡/有島武郎・有島生馬・里美紝旧居跡/番町文人通り/藤田嗣治旧居跡/麹町六丁目

どんどん南に進む。
このあたりもちょっと歩いただけで史跡が見つかる。



泉鏡花旧居跡




泉鏡花(1873〜1939)が明治43年から死去まで、「婦系図」のモデルでもあった愛妻すずとここで暮らした。「夜叉ヶ池」や「天守物語」などはここで生まれた。



有島武郎・有島生馬・里美紝旧居跡




白樺派の作家・有島武郎(1878〜1923)をはじめ、有島生馬(1882〜1974)、里見紝(1888〜1983)ら作家兄弟がここで育った。彼らの父が明治29年にここを購入し、自邸とした。




ほぼ隣にこんな説明板もあった。





◆番町文人通り



番町とは
「番町」は、江戸城を警護する大番組の番士たちが居住する旗本屋敷が、城の西側であるこの地区にあったことが由来とされています。家康直属の親衛隊である大番組をこの地区に配し、万一の時には将軍の逃げ道として。講習路を抜ける道の安全を確保するための軍事的拠点でした。


番町地区の町割
番町地区には300〜900坪の屋敷が集中する旗本屋敷が並び、江戸時代の「旗本屋敷街」の町割りを今もはっきりと読み取ることができます。


江戸から伝わる町割と都市軸


町割の寸法
番町の街区は、江戸時代の代表的な街区形状をしています。一街区の短辺方向(約60間)を背割りし、奥行き約30間、間口約15〜20間を屋敷の一区画として計画されました。


都市軸の方向
都市軸は、南西にある富士山を望む方向に合わせて計画されました。
また、土地の高低差を活かして街区を背割りすることで、屋敷が並ぶ東西方向は、尾根や谷底に沿って道を通すことができ、なだらかな道となっています。



武家屋敷の構成
中上級である旗本屋敷は、大名屋敷を模してつくられ、長屋門、住居、および庭で構成されていました。
番町界隈の敷地は300〜900坪ほどの規模で区画され、このような長屋門が並ぶ風格のある屋敷街がひろがっていました。



この界隈にみられる江戸〜現代
本敷地は、江戸時代の敷地形状が今もそのまま残されています。


江戸時代番町界隈は、旗本が住む武家屋敷街として計画的につくられました。
本敷地は約450坪で番町界隈の標準的な武家屋敷の区画規模となっています。

江戸時代に居住していた笠原平太夫は、江戸城・京都二条城・大阪城を警護する12組ある大番組の組頭のひとりとして大阪を護っていました。



明治〜昭和
明治になると土地を細分化し、長屋門を構える武家屋敷も減っていきましたが、江戸時代に造られた街区の割り方や旗本屋敷の雰囲気は継承されていました。その後、この地区には文学者、陶芸家、画か、歌舞伎俳優などの多くの文化人が居住していました。本敷地には、元王子製紙社長の高島菊次郎氏をはじめ、山口や福島知事を歴任した原保太郎氏など、歴史的に活躍した人物が居住していました。



現代
周辺の土地が共同化、または細分化される中で、本敷地は、江戸時代からの敷地形状がそのまま残っており、旗本屋敷としての面影や規模を現代に伝える貴重な敷地です。



藤田嗣治旧居跡



 藤田嗣治は、明治十九年(1886)十一月二十七日、東京牛込に生まれた。
 大正二年(1913)パリに渡り、やがてエコール・ド・パリの代表的な画家として活躍。日本人で初めて国際的な評価を得た洋画家であった。とくに彼の描く「乳白色の肌」は、他の追随を許さない独自の画風であった。
 昭和十二年(1923)七月、この地にアトリエを新築。昭和十九年(1944)に小淵村疎開するまで居住した。この頃に君代夫人と結婚し、新婚生活をこの地で過ごした。また軍部の依頼でこの時期から多くの戦争記録画を制作したが、戦後そのために糾弾される。昭和二十四年(1949)渡米した後フランスに渡り、再び日本へ戻ることはなかった。
 晩年はフランスに帰化し、レオナール・フジタとして昭和四十三年(1968)一月二十九日、チューリヒで死去した。享年81歳。
 120年目の生誕日に、ここ旧居跡地に記念碑を建立し、彼の画業を顕彰する。



◆麹町六丁目




江戸時代以前、このあたりは矢部村または横山村と呼ばれていましたが、徳川家康が江戸に入った後に町屋となり、麹町となりました。
この界隈が麹町と名付けられた由来については諸説あります。町内に「小路」が多かったためとも、米や麦、大豆などの穀物を発酵させた「麹」をつくる家があったためとも、また武蔵国府へと向かう「国府路(こうじ)」があったからともいわれています。
江戸時代には、現在の麹町大通り(新宿通り)沿いに町屋があるほかは、寺社地と武家屋敷がありました。
安政三年(1856年)には、この絵図にも見られるように、町屋のほかに常仙寺(じょうせんじ)、心法寺(しんぽうじ)、尾張名古屋藩徳川家中屋敷四ツ谷御門などがありました。このうち常仙寺は、別名「寅薬師(とらやくし)」と呼ばれ、境内の様子が「江戸名所図会」にも描かれています(明治の末に杉並区へ移転)。慶長二年(1597年)に開山したとされる心法寺は、現在も町内にあり、信仰を集めています。
明治時代に入ると、ここは印刷所や旅館、麹町勧工場(かんこうば)などが立ち並ぶ商店街となりました。


続く。