2018/01/11 麹町散歩 06 平河天満宮/平河町一丁目/山田朝右右衛門居住地跡/麹町二丁目/麹町太田姫稲荷

今度は先ほどのエリアのやや西側を北上。
神社があって嬉しかった。



◆平河天満宮




平河町一丁目




平河(平川)は、古代以来の中心的集落として平川の下流(現在の一ツ橋・大手町付近)にあった地名で、平川村と呼ばれていました。平川村は、明暦三年(1657年)の大火で現在の場所に移され、平河町と改名、一丁目から三丁目ができたといわれています。
平河天神は、文明十年(1478年)、太田道灌による創建当初、江戸城内梅林坂(ばいりんざか)付近にありました。徳川家康による江戸城整備が始まると平川御門外に移され、慶長十二年(1607年)、現在の場所に遷座されました。
天神社の境内には、上野寛永寺の末寺である龍眼寺(りゅうげんじ)が別当寺(べっとうじ)として置かれていました。広大な境内では縁日のほか芝居や相撲興行などもおこなわれ、周辺も店屋や町屋が並ぶなど、たいへん賑やかな町になりました。
明治二年(1869年)、麹町龍眼寺門前(こうじまちりゅうげんじもんぜん)が元平河町(もとひらかわちょう)と町名を改めました。麹町平河町(こうじまちひらかわちょう)一丁目〜三丁目は、ほぼ江戸時代の町割のままで、明治四十四年(1911年)に麹町の冠称がはずれ、平河町に変わりました。そして、昭和九年(1934年)、元平河町平河町一丁目〜三丁目が合併し、現在の平河町一丁目が誕生しました。このとき平河町四丁目〜六丁目も平河町二丁目となりました。
天神社は第二次世界大戦で焼失してしまいましたが、いまは平河天満宮として立派に再建され、参拝者で賑わっています。



◆山田朝右右衛門居住地跡

google mapのマークの位置に来てみても、説明板などはないのでここで合ってるかどうかわからない。
wikiで調べてみると・・・・

「江戸時代に御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の当主が代々名乗った名称。ただし、歴代当主には「朝右衛門」を名乗った人物もいる。死刑執行人も兼ね、首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれた。」

とあった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%B5%85%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80



◆麹町二丁目



この界隈が麹町と名付けられた由来については諸説あります。町内に「小路」が多かったためとも、米や麦、大豆などの穀物を発酵させた「麹」をつくる家があったためとも、また武蔵国府(むさしこくふ)(現・府中市)へと向かう「国府路(こうじ)」があったからともいわれています。
麹町は、麹町大通り(新宿通り)の両側に形成された町でした。文政七年(1824年)の「江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)」には菓子店の名が、明治時代に書かれた「麹街略誌稿(こうじまちりゃくしこう)」には、牽牛子煎餅(せんべい)やとくに落雁(らくがん)が名物だったと記されています。「新撰東京名所図会」によると、お鉄という女性が売りはじめたお鉄牡丹餅(ぼたもち)や、助惣焼(すけそうやき)(現在のクレープのような菓子)などを売る店があり、いずれも名物として広く知られていました。
また、安政三年(1856年)の絵図にも見られるとおり、現在の麹町二丁目にあたる地域は、町屋の北側に明地(あきち)があり、武士たちが弓術(きゅうじゅつ)などの修練をする大的射込(おおまといこみ)稽古場や放生寺(ほうじょうじ)の拝借地となっていました。
明治以降、このあたりは商店街として栄えましたが、現在ではオフィスビルの立ち並ぶ都心のビジネス街へと姿を変えています。




◆麹町太田姫稲荷神社






続く。