この日記で書かれている場所は一度来ていた。できるだけかぶらないように散歩。
それでも同じところが何か所かある。
2016/07/26
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20160726/1469622695
戒行寺の南脇を東に下る坂である。坂名はこの戒行寺にちなんでいる(『御府内備考』)。別名「油揚坂」ともいわれ、それは昔坂の途中に豆腐屋があって、質のよい油揚げをつくっていたからこう呼ばれたという(『新撰東京名所図会』)。
<榊原鍵吉の墓>
幕末から明治にかけて活躍した剣客榊原鍵吉は、天保元年(1830)江戸の麻布広尾に生まれた。
12歳のとき、麻布狸穴(まみあな)の直心影流男谷信友(おだにのぶとも)に入門し、嘉永二年(1849)に免許をうける。
安政三年(1856)幕府講武所の剣術教授方に登用され、文久二年(1862)には師範に昇進、元治元年(1864)には下谷車坂の屋敷で道場を開いた。慶応二年(1866)には幕府遊撃隊頭取となり、上野戦争で活躍するが、明治元年(1868)8月徳川家達に従って静岡に移住した。
その後、明治政府より再三招かれるが断り、明治六年(1873)撃剣会を発足させ、明治維新後衰退した剣術の再興と普及に努めた。
明治27年(1894)9月11日死去したが、亡くなるまで髷(まげ)を切らず、最後の剣客と称された。
この坂の左右にある末巌寺と永心寺の樹木が繁り、薄暗い坂だったため、こう呼ばれたという(「御府内備孝」)
<萩原宗固の墓>
江戸時代中期の国学者・歌人萩原宗固(1703〜1784)の墓地。平成6年(1994)に改葬整備され、宗固の養父母の墓石が並べて建てられている。
宗固は市谷村町の生まれ。享保から天明(1716〜1780年代)に国学者・歌人として活躍し、門人として国学者で『群青類従』を編纂した塙保己一や老中として寛政の改革を断行した白河藩主松平定信など著名な人物を養成した。
特に塙保己一(1746〜1821)は、『群青類従』の編纂に宗固の蔵書等を参考にするなど大きな影響を受けたという。
宗固は四谷左門町・荒木町に居住するなど、新宿とのつながりの深い学者である。
◆須賀神社
2016/11/10に一度来ている。
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20161110/1478939725
「君の名は」に出てきた坂。
休日ということもあり、地上波で放送された直後ということもあって、写真撮ってる人がたくさんいた。
続く。