2018/01/23 川崎散歩 04 高橋憲太郎顕彰碑/福徳稲荷大明神/渡田新町公園/教安寺/小土呂橋親柱/旧東海道「いさご通り」

前の日記の歩道橋から15号を渡って福徳稲荷大明神を目指す。
その後はまた旧東海道に引き返し、街道沿いの史跡巡りをする。





◆高橋憲太郎顕彰碑




 高橋憲太郎翁は質実剛健、進冣の気象に富む非凡人 関東大地震の災害復興に活躍するトラックの機動力に感じ己が天職として業を興して五十有余年 今や日本の貨物自動車運送業界を代表する指導者のひとりである。
 翁は同氏と計らい日本貨物運送協同組合連合会を設立し、十三年の長きに亘り会長として活躍され、運送事業の近代化、構造改善の推進に全力を傾注された。貨物自動車運送事業は国民の経済を支える大きな産業に成長すると共に協同組合も又今日の隆盛を見るに至った。このことは翁が力の大なること言を俟つまでもない。尚地域社会の振興にも巾広く献身的な活動をなされ人々に深く敬愛される。
 茲に翁が幾多の功績を称え、会員一同にて顕彰碑を建立する。


読みづらい部分もありなんとか入力した。
いつものも間違いが多いと思うが、今回はとくに多いはず。




◆福徳稲荷大明神

「高橋憲太郎顕彰碑」の写真の川崎運送株式会社さんの敷地内になるのかな?







◆渡田新町公園

川崎運送株式会社さんの道路挟んで向かい側の公園。




◆教安寺








江戸時代後期、幕藩体制の動揺にともなう社会不安の増大や、農村における貧富差の拡大などは、人々の将来に対する危機感をつのらせた。そのような状況下に富士山に弥勒の浄土を求めた新興の庶民信仰である「富士講」は、関東一円で爆発的な流行をみた。さらに当時「生き仏」と崇められた浄土宗の高僧、徳本上人は、全国各地を遍歴して念仏を勧め、浄土往生を願う農民たちにやすらぎを与え、彼の赴くところ、おのずから一つの信仰集団が生まれ、「六字名号碑」の建立が行われた。
教安寺に残る燈籠は、富士講の有力な先達であった堀の内出身の西川満翁が組織した「タテカワ講」によって建立されたものであり、境内の六字名号碑は同じく宿民によって建立されたものである。



◆小土呂(こどろ)橋親柱


小土呂橋

 この通りに幅五メートルほどの流れがありました。新川堀と呼ばれ、ここからさらに渡田(とだ)大島を経て海へ注ぐ用水でした。この堀が東海道と交わるこの地点に架けられていたのが「小土呂橋」です。
 小土呂は、砂子(いさご)、新宿、久根崎(くねざき)とともに昔、東海道川崎宿と呼ばれた四町の一つで、古くからの地名です。
 橋の名残は今、バス停や信号の名にみられるばかりですが、この先にあったいくつかの橋のうち、昔の流れに沿って「新川橋」「さつき橋」は今もその名をとどめています。
 この写真にある橋の親柱が残されていたのをここに移設し、当時をしのぶよすがとしました。




こちらは道路挟んで向こう側にあった碑




旧東海道「いさご通り」



おいしそうなお店がたくさん並んでいる。




続く。