2018/01/23 川崎散歩 05 東田公園/東森稲荷神社/旧橘樹郡役所跡記念碑/佐藤本陣跡・佐藤惣之助生誕の地/公設通り/妙遠寺/川崎ハローブリッジ

またまた旧東海道をそれたり戻ったり・・・。
川崎ハローブリッジは国道15号に架かる歩道橋。



◆東田公園

浮浪者さんがたくさん寝ていた・・・・。



◆東森稲荷神社

東田公園の中にある。
柵があって中に入れなかった。
外からお参りした。




◆旧橘樹郡役所跡記念碑 設立の記



 明治11年の郡区町村編制法により、神奈川町成仏寺に橘樹郡役所が設置され、橘樹郡内の行政を司った。明冶21年に郡役所が新設され、その後郡制か施行されると、郡長のもと各地代表の郡会議員により、道路・治水・教育・産業などが議せられた。
 明治三十四年(1901)神奈川町の横浜市編入により、橘樹郡の中心は、産業開発著しい川崎町に移り、大正二年(1913)現在地の川崎町砂子に威風堂々とした郡役所が建てられ、川崎・保土ヶ谷二丁と十七番の行政に当った。群南部の臨海埋立地には京浜工業地帯が形成され、人口増加による都市化が進む一方、北部農村地帯も私鉄の沿線開発や近郊農業の発達になどにより大きく変貌した。
 大正十三年(1924)七月川崎に市制が施行され大正十五年(1926)郡役所は廃止された。その後川崎・横浜の市域拡張により、昭和十三年(1938)には半世紀にわたり親しまれた「橘樹郡」の名も消えることになった。
 郡役所の川崎移転から90年。ここに川崎市制80周年を記念して、往年の地に「旧橘樹郡役所跡記念碑」を建立し、万葉集にも歌われた橘樹の名を永久に留めることにした。




◆佐藤本陣跡・佐藤惣之助生誕の地




 詩人佐藤惣之助は明治二十三年十二月三日に生まれ、昭和十七年五月十五日に五十二才で世を去った。生家は川崎宿の上本陣佐藤家で、現在位置の北隣の砂子二丁目四番地がその旧地である。
 惣之助は、大正、昭和初期の詩壇に雄飛して数多くの珠玉の名編を世に出し、不滅の地歩を築き、また「詩の家」を主宰して詩友と交わるとともに多くの後進の指導育成にあたった。さらに俳句・歌謡・小説・随筆にすぐれた業績を残し、釣・義太夫・演劇・民謡研究・郷土研究・沖縄風物の紹介など、趣味の世界における多方面の活躍も驚くべきものがある。
 歌謡作詞では「赤城の子守唄」「人生劇場」「新妻鏡」「男の純情」「青い背広で」「湖畔の宿」「人生の並木路」「すみだ川」など、人々の胸をうち、心に通う歌詞の故に今もなお愛唱されている不朽の作品が多い。
 ここにその事績を慕う郷党ら相集い佐藤惣之助生誕地記念碑建設委員会を組織し、市内在住の彫刻家の巨匠円鍔勝三郎に嘱し、惣之助の肖像と、嗣予佐藤紗羅夫氏の揮毫になる「青い背広で」の一部を銅碑に彫出して掲げ、記念とする。




◆公設通り



詳しい情報などは得られなかった。



◆妙遠寺




泉田二君功徳碑川崎市が現在のように発展するまでには、多くの先人たちの努力がありました。なかでも、江戸時代に活躍した小泉次太夫と田中休愚(きゅうぐ)の功績は、忘れることができません。
小泉次太夫(1538〜1623)は江戸時代初期の人で、徳川幕府の用水奉行として、二ヶ領用水・六郷用水の開削工事の総指揮をとりました。稲毛領(現在の多摩区・宮前区・高津区中原区および横浜市港北区北部のあたり)と川崎領(現在の川崎区・幸区のあたり)の二つの領をむすぶ二ヶ領用水は、慶長二年(1597)から慶長十六年(1611)までの十四年間をかけて開削された人工の農業用水で、県内では最古とされています。
田中休愚(1662〜1729)は江戸時代中期の人で、衰退しかけていた川崎宿を建て直したり、大岡越前守忠相に認められて勘定支配格となり、二ヶ領用水の改修などで活躍しました。また、大著「民間省要」を書き上げ、幕府の政策に対して庶民の立場から提言を行ない、民政に大きな業績をあげました。
この功徳碑は、二人の功績を後世までたたえるために、苗字のうちから一字づつをとって泉田二君功徳碑と名づけられ、明治二十二年(1889)に建てられました。






川崎ハローブリッジ






かなり大きな歩道橋。
エレベーターまで付いている。
橋の下には浮浪者と思われる方々がいらっしゃった。



続く。