稲毛神社はハローブリッジのすぐ脇にあった。
今回まわった中で一番大きな神社だった。
その後はまた旧東海道沿いに歩いたりそれたり・・・・。
◆稲毛神社
三峰神社/御嶽神社/八坂神社/大神宮/松尾神社/金刀比羅宮/福田稲荷神社
和嶋弁才天社
御神水吹上げ井戸石枠
白山神社/川崎天満社
堀田神社/第六天神社
天地睨みの狛犬
正岡子規句碑/惣之助の詩
史跡東海道川崎宿「稲毛神社」
当社は明治維新まで「山王社」といわれた。鎮座地の「堀の内」は、この付近を開発し「川崎荘」とした在地武士の館跡と推定される地名であり、当社も同荘の鎮守として勧請されたものとみられる。
中世における当社の推移は定かでないが、応永11年(1404)に大般若経写奉納の動きがあった。近世初頭、伊奈氏による備前検地をうけ、20石の朱印を安堵され、以降川崎宿の惣鎮守として、人々は事あるごとに当社へ詣で地域の精神的紐帯となった。
8月の例祭は宮座の制を残す古式なものである。
境内社の数がすごいねぇ・・・。
弁天池
河崎冠者基家は坂東平氏の雄、秩父十郎武綱の子で、平安時代にこの地に移り住み荘園を開いて、その子重家との二代にわたってこの地を領したと言われています。
その居館の跡とも推定されるのがこのあたりです。
当時の荘園領主は、その居館の周囲に堀をめぐらせました。かつて、ここから第一国道に沿って小堤をともなった小川が流れていましたが、このあたりの地名を「堀之内」と言うことからも、それは堀の遺構ではなかったのかと言われています。
また、平氏はその氏神、山王権現をまつるのが常でした。稲毛神社は古名を武甕槌宮と言い、景行天皇とのゆかりを伝える川崎市屈指の古社ですが、慶応四年までは「河崎山王社」と呼ばれていました。
かつては、その小川に接して大きな神池(弁天池)があり、その中の島に和嶋弁財天がまつられており、四季折々に参詣来遊するものが多かったと言います。また、江戸時代にはこの池と小川を利用して「曲水の宴」が開かれておりました。その弁財天と曲水宴の歌碑二基は今も稲毛神社の境内にあって、当時の川崎の文化水準の高さを伝えています。
残念ながら、この池と小川は昭和20年代に第一国道拡張の際に埋め立てられ、その後は、小川をせきとめて造った小さな弁天池だけが残されていました。
今回、稲毛公園改修にあたり近代的な公園にふさわしい姿に造りかえられましたが、この池は、川崎の発祥とも言うべき川崎市居館の堀跡と、宿場時代の町民の優雅な暮らしぶりを今に伝えるものです。
旧六郷橋親柱再現整備の由来
徳川家康は、東海道に宿駅伝馬制度を敷く前年の1600年(慶長五年)に六郷大橋を架け、以来再三に亘る修復や架け直しが行われたが、1688年(貞享五年)の大洪水で流された後は、明治に入るまで架橋することなく渡船場が設けられ、船で川を往来するようになった。
明治に入って以降、1874年(明治七年)を内橋、1883年(明治十六年)に六郷橋が架けられたがいずれも大洪水で流出した。
旧六郷橋は近代化が進む時代に即応した陸上輸送の強化を目的に「陸路の帝都の門」として1925年(大正十四年)鉄構造のタイドアーチ型橋梁として架けられた。その後、1984年(昭和五十九年)に現在の橋に架け替えられるまでの約60年間、第一京浜国道(一般国道十五号)のランドマークとして活躍してきた。
こうした歴史と役割を果たしてきた旧六郷橋は、川崎の隆盛を築き、偉大な功績を残した。また、その親柱は、優美な姿で旧六郷橋の川崎側橋詰に鎮座し道行く人々に親しまれてきた。
輝かしい二十一世紀に入り、川崎区誕生三十年を迎えた機械に、住民の発意と川崎商工会議所、国土交通省、川崎市の尽力によって、その親柱一対を近代化遺産に位置付け、住民によるまちづくりのシンボルとして幾久しく保存活用されることを祈念して、ここに再現整備する。
◆馬頭観音
情報が何も得られなかった。
馬頭観音がすぐ隣にある。
◆川崎不動尊
川崎宿二百年で最大の火災。
小土呂から六郷渡し場まで町並みはほぼ全焼。宗三寺、一行寺も焼けた。採算の火災から立ち直った川崎宿だが、今、宝暦以前の歴史文献は見当たらない。
続く。