2018/01/23 川崎散歩 07 田中本陣と休愚/真福寺/川崎宿の家並/万年屋跡/六郷橋駅跡/明治天皇六郷渡御碑

この日記でとりあえず北の端、多摩川までたどり着く。



◆田中本陣と休愚



田中本陣と休愚

田中(兵庫)本陣は、寛永五年(1628)に設けられた宿内最古の本陣である。 ここ出身の休愚は宿の財政再建に尽力した人物で、当時の農政を論じた「民間省要」の著者としても知られる。




 川崎宿に三つあったといわれる本陣の中で、最も古くからあった田中本陣は、寛永五年(1628)に設置されている。 田中本陣はその場所が最も東、すなわち江戸に近いため「下の本陣」ともいわれた。
 本陣は大名や幕府の役人、勅使など武士階級専用の宿であった。その構造は、武士階級を宿泊させるために、当時一般の民家には許されなかった門や玄関構え上段のある書院など、書院造りを取り入れた空間と、本陣の主(宿場の中でも財力があり、信頼のおける名家などが幕府から選ばれた)の一家の生活空間との二つを併せ持っていた。 建物の改造や再建には幕府や諸藩から助成を受け、半官半民的な運営がなされた。
 本陣は参勤交代の導入により、多くの大名が街道を旅するようになるとともに栄えたが、 江戸後期には、大名家の財政難や参勤交代の緩和により、衰えも目立った。安政四年(1857)、アメリカ駐日総領事ハリスが、田中本陣の後輩ぶりを見て、宿を万年屋に変えたことは有名である。
 明治元年(1868)、明治天皇の東幸の際、田中本陣で昼食をとり、休憩したとの記録がある。
 明治三年(1870)、新政府は天然痘流行を機に各地で種痘を行ったが、 川崎では11月から12月にかけて6回、田中本陣で行う旨の布達が出されている。
 宝永元年(1704)、42歳で田中本陣の運営を継いだ田中休愚(兵庫)は、幕府に働きかけ六郷川多摩川)の渡し船の運営を川崎宿の請負とすることに成功し、渡船賃の収益を宿の財政にあて、伝馬役で疲弊していた宿場の経営を立て直した。 さらに商品経済の発展にともなう物価の上昇、流通機構の複雑化、代官の不正や高年貢による農村の荒廃、 幕府財政の逼迫に対し、自己の宿役人としての経験や、するどい観察眼によって幕府を論じた「民間省要」 (みんかんせいよう)を著した。これによって、享保の改革を進める八代将軍吉宗に認められ、幕府に登用されてその一翼を担い、晩年には代官となったのである。



真福寺




中に入れなかった。



川崎宿の家並


六郷の渡しと旅籠街/川崎宿の家並

家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後実に二百年の間、渡し船の時代が続きました。舟をおりて川崎宿に入ると、街道筋は賑やかな旅籠街。幕末のはやり唄に「川崎宿で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤屋、小土呂じゃ小宮・・・・・・。」なかでも万年屋とその奈良茶飯は有名でした。


旅籠六二軒をはじめ、八百屋、下駄屋、駕籠屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、鍛冶屋、髪結床、油屋、道具屋、鋳掛(いかけ)屋、米屋など合計三六八軒。




◆万年屋跡



たぶん写真の所で合っていると思う。
説明板など何もなかった。

「奈良茶飯」が有名で一膳飯屋から旅籠にまでなったとのこと。
東海道中膝栗毛」にも描かれたとのことだった。




六郷橋駅跡




現地には説明板など何もなかった。
1899年から1949年まで存在した京急大師線の駅だったとのこと。



明治天皇六郷渡御碑




字が薄くて読めない・・・・。
舟を並べて固定し橋を作ったということかな?



長十郎梨のふるさと

多摩川沿いにどこまでも続いていた梨畑。明治中頃、病害に強く甘い新種が大師河原村で生まれた。発見者当麻辰次郎の屋号をとり、「長十郎」と命名されたこの梨は川崎からやがて全国へ。





関東でも屈指の大河である多摩川下流域は六郷川と呼ばれ東海道の交通を遮る障害でもありました。
そこで慶長五年(1600)、徳川家康は六郷川に六郷大橋を架けました。以来、修復や架け直しが行われましたが、貞享五年(1688)七月の大洪水で流されたあとは、架橋をやめ明治に入るまで船渡しとなりました。渡船は、当初江戸の町人らが請け負いましたが、宝永六年(1709)三月、川崎宿が請け負うこととなり、これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました。




続く。