やはり新川沿いに西に進む。
新渡橋からゴールとなる船堀駅に向かって北上する。
◆小江戸橋
下は新川。
◆一之江境川親水公園
江戸時代の一之江境川は水深も深く、農耕のための用水ばかりでなく、舟の往来にも用いられました。一之江新田の記録の中に、川床があがって舟の通行にさしつかえるので、川浚いをしたいという願書があります。
一之江境川のそそぎ込む新川は、江戸川と中川を結ぶ水路で、江戸と行徳の間を往復した行徳船の航路としてもにぎわいました。行徳船は、江戸から成田詣でに行く人びとを多く運んだといわれ、にぎやかな船旅が想像されます。明治になってからの新川は、蒸気船の航路で、おおぜいの人や大量の物資輸送に大きな役割を果たしました。
◆船堀日枝神社
旧船堀村東組の鎮守です。祭神は国常立尊、左右相殿に春日大明神と稲荷大明神を合祀しています。慶長十九年(1614)、船堀新田開発の際に守護神として山王権現を祀ったのが始まりといわれています。別当社は隣接の光明寺で、明治六年に日枝神社と改称しました。
■船堀の富士塚(区登録有形民俗文化財)
明治二十五年、登山講によって築造されたものです。登山講は明治時代に廃絶したといわれています。高さに比べて面積は広く、椀状に盛土された容姿は、他の富士塚と違った印象を与えています。石碑は二基で、全山ボク石に覆われています。
■乾海苔創業記念碑
海苔はかって江戸川区の特産でした。この碑は、明治30年建立で、高さ146cm、幅130cm、厚さが18cmあります。船堀村の乾海苔創業の由来と功労者名が刻み込まれています。
■力石
江戸時代から近代にかけて、若者たちが力試しに持ち上げた石です。かつて日枝神社では、力試しの催しが盛んでした。十四基の力石と、力試しの記念碑である「力持ちの碑」(明治二十三年銘)が境内に集められています。
富士塚は、富士信仰 の団体である富士講 の人たちが、富士山の容姿をかたちどって築きあげた小高い塚です。富士山に登ったのと同じ霊験が得られるようにと願って築かれました。
船堀の富士塚は、旧船堀村 の登山講の人たちが、明治二十五年(1892)に築きました。高さは約2mです。盛土された面積は広く、山肌はボク石 (溶岩 )で覆われ、登山道は「く」の字型に作られています。
頂上には浅間神社 をまつり、五合目には浅間神社の石碑があります。体裁よく整えられた富士塚です。
◆光明寺
真言宗豊山派で、稲香山横道院と号します。開山は覚仙上人で、慶長十九年(1614)本尊に不動明王を祀り、ここに一寺を建立しました。
門前の道が横丁に入る通路となっていたことから、俗に「横道の不動様」とも呼ばれ、眼病に御利益があるといい、深川から成田山に旅する人も少なからず立ち寄って参詣しました。
当寺は、天明二年(1782)の火災、大正12年の関東大震災などの災禍にみまわれました。現在の本堂は昭和四十九年に建築されたものです。
江戸川区の人々は、古くから弘法大師霊場巡りをさかんにおこなっています。当寺も葛西大師まいり(船堀・宇喜田・小島組)の霊場の一つです。
◆船堀スポーツ公園
かなり広く、子供たちがいっぱい遊んでいた。
かつてこの地は、白鷺が群れ交うのどかな田園地帯でした。
寄り添うように並んだ雌雄の白鷺は、信頼と愛情をあらわしています。
新しい生命を育みながら、人間性ゆたかな未来をきずいてゆくことを希って。
水路、公園がいっぱいあり、緑が多い。
お寺も多い気がする。
土地が低いのが怖いけど、住みやすそうなところだった。
※2021/11/09 レイアウト、説明版の文字化など変更。