2018/02/06 明治神宮外苑散歩 01 聖徳記念絵画館/スダジイ・お鷹の松/建国記念文庫/TEPIA/新国立競技場/サイノ

お休みで、ワニガメさんと明治神宮外苑周辺を散歩。
イチョウ並木があるんだが、やはり冬は寂しいね・・・。



聖徳記念絵画館



中には入らなかった。
かなり重厚感のある建物だ。



スダジイ・お鷹の松



スダジイ/台場石

スダジイ
 本州中部以南の暖地に自生するブナ科の常緑高木で、幹は直立し、枝はよく分岐します。高さは25mに達し、幹廻りは4,5mを越えることもあります。6月頃、穂状の花が上向きに咲きます。秋には(どんぐり)がなり食用とします。
 この木は幹周りが3.6mあり、樹齢は350年前後と鑑定されます。
 江戸時代には柳沢吉保の父、安忠の屋敷付近にあったと言われています。この木に囲んで、坂町に通じる脇道は「椎木横丁」と呼ばれていました。
 元は新宿区本場町にありましたが、昭和39年(1964年)建築工事の為近くに移植された後、平成八年(1996年)外堀通りの道路拡張工事に伴う再度の移植により、この地に来たものです。
 都内におけるスダジイの古木として貴重なもので、昭和五十九年(1984年)新宿区の天然記念物に指定されました。


『台場石』
 木の下の大きな石を、通称『台場石』と言います。
 徳川幕府は米国艦隊から江戸を防衛するため、嘉永年間(1853〜1854年東京湾に六基の台場(砲台)を築きました。その石垣として使用されたのが、この角石です。石垣は相模・伊豆・安房方面の各地から調達されたと言うことです。
 明治の年代に入ると、いくつかの台場は海上交通の障害になるだどの理由で、撤去されました。そのため、いま残っているのは第三・第六台場のみとなっています。第三台場は現在、都立「台場公園」として一般に公開されています。
 撤去された『台場石』は、公園で再利用されるなど転々とし、その一部がこの地に来たものです。
 江戸時代の遺産である『スダジイ』と『台場石』、それぞれ数奇の運命を辿ってここ明治公園で蘇り、互いに寄りそって佇んでいるのも何かの因縁でしょう。



お鷹の松

大正七年(1918)明治神宮外苑競技場(現国立霞ヶ丘競技場)造成のために買上げた霞岳町の敷地内に境妙寺という古寺があった。昔、徳川三代将軍家光(1603〜1651)が鷹狩の途中この寺に休息していたところ、江戸城から飛び去っていた、「遊女」と名づけた愛鷹が飛んで来て、庭前の松の枝に止まったので家光は大へん喜び、この松をその鷹の名をとって「遊女の松」と名づけたと伝えられる。後の世の人々が「お鷹の松」或いは地名をとって「霞の松」とも呼んだ。碑文にある二代目の松(樹齢推定200年 高さ4メートル)は昭和三十九年(1964)、東京オリンピック開催のための拡張工事の際に取り去られ、碑石は競技場代々木門内に移設されていたが、このたび現在地に移し、新たにこれに黒松を配したものである。




◆建国記念文庫





昭和四十一年十二月九日、建国日制定審議会は二月十一日を建国記念の日として答申、即日法律によって発布された。この間、数十万通に及ぶ、記念日制定の希望・意見書が進達されたので、ここに建国記念文庫を建設し、これを保管する事にした。
建設費は総て国民の浄財である。これは、現下の国民が等しく建国を思う情熱の結果であり、千年万年の子々孫々に伝え、以て後日の語り草にしたいのが、記念文庫設立の目的である。
建物は、わが国が建国当時、米穀を以て立国としたことを想い、奄美大島の高倉様式を移築しその屋上にテンパガラスを施行し、ここに書類を保管した。書は、出雲大社の神門の布施杉の材に佐藤大寛が墨書した。
礎石は、坂上田村麻呂将軍の東征により、平和国家が確立された故事に鑑み、奥州厳作山の石垣白河石を以て施工した。



◆TEPIA

こちらは次の日記で!



◆新国立競技場

だいぶできてきたね!



◆インド料理 サイノ

こちらは外苑ではない。
市ヶ谷まで足をのばしたので、入ってみた。



おいしかった♪