2018/02/26 清澄散歩 02 深川一丁目児童遊園/えんま堂/心行寺/深川明治歩道橋/小津安二郎誕生の地/採茶庵跡

清澄通りを北上する。
以前「えんま堂」には来たことがあったが、周りがこんなに史跡があるんだと驚かされた。



◆深川一丁目児童遊園



トイレの壁に歴史が!
いいことだとは思うけど、ちょっと写真撮りづらいね(w


◆えんま堂




2013/10/07 に一度来ている。
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20131007/1388668763



◆心行寺





◆深川明治歩道橋





小津安二郎誕生の地

深川明治歩道橋のすぐ下になる。



 江東区の生んだ世界的映画監督小津安二郎は、明治三十六年(1903)十二月十二日、この地に生をうけました。生家は「湯浅屋」という屋号の肥料問屋でした。安二郎が十歳のとき、三重県松阪町に転居、中学校卒業後、尋常小学校の代用教員を1年間勤めた後、大正十二年(1923)再び上京、深川和倉町に住み、松竹蒲田撮影所に撮影助手として入社しました。
 昭和二年(1927)監督に昇進、処女作時代劇「懺悔の刃」を監督しました。
 その後の小津安二郎監督作品は、「出来ごころ」に代表されるような、下町特有の情緒や人情味が描かれ、またローアングルによる撮影スタイルなどによって、家族の触れ合いや日常生活を端的に描く独特の作風を作り上げていきました。
 昭和三十七年(1962)「秋刀魚の味」を発表、映画人としては、初の芸術院会員となりました。この作品が小津安二郎の遺作となり、翌昭和三十八年(1963)60歳で死去しました。その作品の価値は死後内外共にいよいよ高まり、世界最高の映像作家として評価されています。



◆採茶庵跡(さいとあんあと)



 採茶庵は、江戸時代中期の俳人杉山杉風(すぎやまさんぷう)の庵室です。杉風は、名を市兵衛、または藤左衛門と称したほか、屋号を鯉屋、俳号を採茶庵、五雲亭などとし、隠居したのちは一元と名乗りました。家業は魚問屋で鯉上納の幕府御用もつとめ、小田原町一丁目(中央区)に住んでいました。松尾芭蕉の門人でもあり蕉門十哲に数えられ、「常盤屋句合(ときわやくあわせ」「隅田川紀行」などの著作があります。また、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られています。
 採茶庵があった場所については、杉風の娘婿である隋夢(ずいむ)の遺言状に「元木場平野長北角」と書かれています。平野町は、海辺橋南詰から万年町二丁目(深川1−8)を挟んだ一角でした。説明板が建っている海辺橋のたもとより140メートルほど南西に位置します。
 芭蕉奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、しばらくは採茶庵で過ごしました。門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから欧州へと旅立っていきました。                                                                     


続く。