2018/02/26 清澄散歩 03 海辺橋/清澄庭園(児童公園)/滝沢馬琴誕生の地/深川と水/辰巳湯/深川資料館通り

まだまだ清澄通りを北上。
道幅が広いので反対側に渡るのに時間がかかる(汗
現地に詳しい人なら、これからUPする写真を撮るのに苦労したのがわかると思う(w



◆海辺橋







清澄庭園(児童公園)

こちらは無料で入れるところかな?
有料の方はのちほど(そちらは定休日)




滝沢馬琴誕生の地

深川ふれあいセンター 平野児童館 という建物の前にある。




 江戸時代後期の小説家。明治四年(1767)六月九日、旗本松平信成の用人を勤める下級武士の五男として、この地にあった松平家の邸内で生まれ、嘉永元年(1848)十一月六日、82歳で病没しました。名は興那、曲亭馬琴・著作堂主人などと号しました。
 安永四年(1775)、9歳で父親と死別し、その後は、松平家の孫の遊び相手として一家を支えていましたが、安永九年(1780)、14歳の時に松平家を出ました。門前仲町に住み、文筆で身を立てようと、寛政二年(1790)山東京伝のもとに入門しました。翌寛政三年(1791)正月に処女作として、京伝門人大栄山人の名で黄表紙「尽用而二分狂言」を発表しました。以後、儒教思想にもとづく教訓、因果応報による勧善懲悪を内容とした読本を続々と著し、読本作家の第一人者と称されました。
 天保五年(1834)ころより眼を患い、晩年は失明しながらも、口述・代筆で著作を続けました。
 読本・黄表紙から随筆にいたるまで、約470種にものぼる著作を残しています。




◆深川と水


観光高札
深川と水

 深川では江戸時代から飲料水の確保に大変苦労しました。この地が海面の埋立による造成地であるために井戸水の水質が悪く、その上隅田川が障壁となって神田・玉川両上水の利用ができなかったからです。そのため飲料水は水船に頼らざるを得ませんでした。
 深川に上水道が完成したのは明治も後半になってからでした。それまでは、神田・玉川両上水の余り水を銭瓶橋(ぜにがめばし)(大手町付近)の「吐水口」で水船に積み込んで各地に陸揚げし、「水屋」「水売」と呼ばれる人々が棒手振りで飲料水を売り歩きました。ここ海辺橋の北岸は、江戸時代から「水場」と呼ばれており、この辺りでも水船から飲料水が陸揚げされたものと思われます。


って、水の確保は大変だったんだね・・・・。





◆辰巳湯




◆深川資料館通り


この通りを進んで行くと「深川江戸資料館」がある。
二度来たことがあったかな?
日記には一つしかなかった。


2013/08/29
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20130829/1378012596



もうちょっと先を曲がったところには「東京都現代美術館」がある。
そちらも一度来たことがあった。
今は改装中でお休みとのことだった。

2013/08/29
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20130829/1378009354




続く。