2018/02/26 清澄散歩 04 清澄庭園/村田春海の墓/本誓寺/常照院/呂一官の墓/臨川寺

清澄庭園の北側にお寺がまとまってる地区があった。
この日記の場所は100m四方もないと思われる場所に全部ある。



清澄庭園


前にも来たところ。
はてな」でブログを始める前らしく、日記が見つからなかった。
月曜日で定休日だった。



◆村田春海(むらたはるみ)の墓



 江戸時代中期の国学者歌人日本橋小舟町の豪商村田春道の次男として延享3年(1746)に生まれた。父春道、兄春郷(はるさと)とともに加茂真淵の門人で著名な国学者であった。春海は国学者としては仮名遣いや五十音の研究に造詣が深く、歌人としては加藤千陰(ちかげ)とともに古今調の流麗な一派を立て江戸派と称せられた。門人に清水浜臣(はるおみ)・小山田(高田)与清(ともきよ)・岸元由流(ゆずる)らがおり、江戸の宗匠と称せられ、従い学ぶ者が衆をなしたといわれる。
 『琴後集(ことじりしゅう)』『歌かたり』『和学大概』など多数の著書がある。文化八年(1811)二月十三日66歳で死去した。墓石に楷書で平春海先生墓とある。




◆本誓寺







◆常照院




◆呂一官の墓


 呂一官は明(中国)に生まれ、日本に帰化した人である。一官は漢方医で、薬草・香木などの研究に大変すぐれていた。はじめ京都にいたが、徳川家康の招きで浜松に居住し、その後家康の侍医として江戸へ移った。日本橋に屋敷地を賜り、元和元年(1615)に「紅屋」という屋号の店を構え、臙脂(えんじ)(紅)・白粉(おしろい)などを製造販売し、たちまち評判となった。元和九年(1623)十月十日に没した。戒名は「迎誉来相信士」。
 過去帳によると「元祖唐人辻一官」とあり、五代目から「堀氏」を名のっている。文政五年(1822)堀氏十三代目の頃、近江上人外池字兵衛正保の子半兵衛正義が養子となり紅屋を継いだ。これが「柳屋」の創業といわれ、現在でも一官は柳屋業祖として祀られている。
 一官の墓は宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、本誓寺墓地の左奥角にある。



臨川寺




玄武仏碑
 臨川寺は、承応二年(1653)鹿島根本寺(茨城県)第20世の冷山宗仙和尚が小名木川に近い現在地に結んだ臨川庵に始まり、仏頂河南和尚(根本寺第二一世)が幕府に願い出て、正徳三年(1713)に「瑞甕山臨川寺」という山号寺号を許され、京都妙心寺の末寺となりました。
 延宝八年(1680)に深川に移り住んだ松尾芭蕉 は、仏頂和尚と親交が厚く、たびたび参禅に通ったと伝えられています。芭蕉の号「桃青」も仏頂和尚によるものといわれています。以来、芭蕉ゆかりの寺として玄武仏碑をはじめ、梅花仏碑・墨直しの碑・芭蕉由緒の碑などが残されています。
玄武仏碑は、美濃派の俳人神谷玄武坊(玄武仏、寛政一〇年〈1798〉没)を顕彰するために門下の白山下連中が建てたものです。延享(1744〜48)のはじめ、玄武坊は芭蕉門下の各務支考(梅花仏)が京都双林寺に建てた芭蕉墨直しの墨跡を写した碑を臨川寺に建て、毎年三月に墨直会を催して芭蕉をしのんだといわれています。また玄武坊は梅花仏碑も建てたといわれ、芭蕉と美濃派の顕彰に尽くしました。



続く。