2018/02/26 清澄散歩 06 新小名木川水門/昭文社/二代目中村芝翫宅跡/清澄白河駅/高橋/干鰮場跡/清洲寮

清洲橋通りを東へ進む。
この通りもかなり道幅の大きい通りだ。



◆新小名木川水門




昭文社


紙の地図を使っていたころはよくお世話になったなあ。
こちらは制作本部で本社は麹町にあるとのこと。




◆二代目中村芝翫(しかん)宅跡



 歌舞伎役者の二代目中村芝翫は、寛政八年(1796)江戸下谷に生まれ、嘉永五年(1852)二月十七日に57歳で没しました。
 はじめ舞踊家で初代藤間勘十郎の門人(のち養子)になり、藤間亀三郎を名乗りました。その後、江戸で出演中の三代目歌右衛門の弟子になり、文化十年(1813)に中村鶴助と改名、文政八年(1825)には二代目中村芝翫を継ぎました。屋号は成駒屋です。舞台では、立役(たちやく)、実悪(じつあく)、女方(おんながた)、武道(ぶどう)、荒事(あらごと)など、さまざまな場面で活躍し、天保七年(1836)には、四代目中村歌右衛門を襲名しています。
 二代目中村芝翫は、天保のころこの辺りに住んでいました。そのため、小名木川に面してあった河岸は「芝翫河岸」と呼ばれました。天保二年(1831)に江戸の中村座で「六歌仙(ろっかせん)」を演じた時、喜撰法師(きせんほうし)(六歌仙の一人)の歌詞をひねって、
「我が庵は芝居の辰巳常磐町、而も浮世を放れ里」
と住居付近の様子をおりこんでいます。




清澄白河駅



◆高橋





◆干鰮場跡



 干鰮場はいわしを乾燥したもので江戸時代から重要な肥料であった 寛永のころ関西地方の漁民が銚子付近の海岸で干鰮をつくり、江戸へ輸送するようになった 江戸の干鰮取引きははじめ中央区方面であったが元禄十三年から小名木川にそった白河小学校付近に干鰮の荷揚場がおかれこれを干鰮場といった またここを銚子場ともいった 干鰮場はこのほか永代に永代場、深川二丁目に江川場があった





清洲

寮とあるが集合住宅とのこと。
昭和7年に建てというからもうすぐ90年・・・・。
異様な雰囲気はあるがそこまで古い建築物だとは思わなかった。




続く