まだ四十町通りを北上。
清洲橋通りを超えてからは北西へ向かう。
◆船入川跡
舟入公園の中にあった。
江戸時代から大正時代まで、この辺りは八郎右衛門新田と呼ばれる農村地域で、この公園の前を南北にはしる通りは、かつて船入川という名の川でした。
船入川は、現在清洲橋通りとなっている、境川から南流し東砂8-6・21辺りで堀留めとなっていました。ここでは、道幅が急に狭くなっていて、当時の面影をとどめています。
主に、農業用水や荷物の運搬に使われ、両岸の土手の上には、農家や鎮守社が軒を連ね、その背後には耕地が広がっていました。北から出戸の橋、神明橋、土橋、榎本橋という4つの橋が架かっていました。
昭和十三年(1938)から埋立てられ、昭和十五年(1940)に砂利道となりました。今は通称「四十町通り」と呼ばれています。この名の由来は、八郎右衛門新田の面積が、40町(約40ヘクタール)あったためと言われています。
地蔵尊
でも、よくみると「なかだのじどをそん」と書いてある。
境内になるか外になるのか微妙な場所に建っている。
◆大塚天祖神社神明宮
天祖稲荷神社
◆仙台堀川・横十間公園
続く。