2018/03/04 中野坂上散歩 04 庚申塔/塔の山公園/宝仙寺三重塔跡/犬坂/宝仙寺/やままさ醤油醸造所の煉瓦

宝仙と名の付く学校が多くなり、宝仙寺という大きなお寺があった。
調べると宝仙寺の関連団体とのこと。
こども教育宝仙大学のほか、宝仙学園短期大学、宝仙学園中学校・高等学校、宝仙学園小学校、宝仙学園幼稚園が隣接していた。




庚申塔




◆塔の山公園



宝仙寺三重塔跡





 宝仙寺三重塔は、この地から南東約100mのところに建っていました。旧地名の塔山は、これにちなんだものです。
 この塔は、寛永十三年(1636)に建立され、高さ24m、屋根は檜皮葺きで、江戸唯一の三重塔でしたが、昭和二十年五月の空襲で焼失しました。古写真の実測図から、池上本門寺、上野寛永寺五重塔とならんで、江戸時代初期の典型的な建造物であったことがわかります。
 古記録によれば、中野村の飯塚惣兵衛夫妻が総主となって建立したとあり、かつては夫妻の木造が塔内に安置されていました。当時、寺院の建物は将軍や大名クラスが総主となるのが通常ですので地元の農民が立てたという点でも、きわめて特筆されるものです。





◆犬坂

特に説明板などなかったので現地では何もわからなかった。



調べてみると、江戸時代も末期のころ、将軍が遊猟したときに猟犬が野犬に襲われることがあったので、村人たちが飼い主のいない犬を現在の犬坂下あたりにつないでいたため、犬坂と名がついたとのこと。




坂を上がったところに学校の案内板が建っていた。




宝仙寺




三重塔と石臼塚




中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を挽くことに使われていた。
そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため、中野そばとまで言われるようになった。
その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていった。それを見て当山、宝仙寺第五十世住職富田●純大増正(宝仙学園創立者)が、人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に「石臼塚」を立て供養した。


●の部分は漢字が出てこなかった。



石臼塚は以前小金井神社で見たことがある。
2017/03/14
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170314/1489885715
あれだけ神社仏閣を見て2つ目なのでかなり希少なものだと思われる。



堀江家の墓所

どこが墓所なのかわからなかった。




堀江家は、十二代堀江重賢の徳川幕府への届出書によれば、越前(福井県)から同家の先祖、兵部(ひょうぶ)という人が農民十数名とともにこの地に来て、弘治元年(1555)中野の悔恨に着手したとされています。
 当時、関東を支配していた小田原北条氏から小代官に任ぜられ、江戸開幕後、歴代の当主は、中野村の名主として中野とその近郷の有力な指導者となりました。
 堀江家は、将軍鷹場の村むらへの御用触次(ごようふれつぎ)、青梅街道中野宿の問屋場役人、組合村寄場役人のほか、江戸城内への種物・なす苗の上納など各方面に事跡を残しましたが、明治以降も中野の町村政のために果たした業績は大きく、現在の中野区の発展の礎となっています。











◆やままさ醤油醸造所の煉瓦






やままさ醤油醸造所のレンガ塀

 このモニュメントは、明治初期創業のやままさ醤油醸造所のレンガ塀の北側一部を移設したものです。
 建造は、1889年(明治32年)と推定されます。中野での初期洋風レンガ構造物をいわれている浅田銀行本店を手掛けた、中野在住の棟梁と弟子達によって醸造所の蔵とともに築かれました。
 石灰、海藻の「つのまた」、砂などで固める日本の伝統的なしっくい壁の技術とフランス積と言われるレンガ積み工法で造られています。
 当時、レンガ塀の築かれた青梅街道沿いは、中野の商工業の中心地として賑わっていました。また、ミソ、醤油の醸造は、蕎麦粉製造と共に中野の代表的な地場産業でした。





続く。