2018/03/14 四谷散歩 01 四ツ谷駅/二葉亭四迷旧居跡/四谷見附公園/みなみもと町公園/鮫河橋坂

24時間勤務アケで、JR四ツ谷駅からJR代々木駅まで歩いた。
日焼け止めをしないで歩き回っていたから、マスクの跡が付いちゃった(汗



◆JR四ツ谷駅

スタートの四ツ谷駅



二葉亭四迷旧居跡

説明板がへこんだ所にあって、mapがなかったら気が付かなかったかもしれない。



 この地は、小説家・翻訳家の二葉亭四迷(1864〜1909)が、明治十三年(1880)七月から1年間、東京外国語学校露語科に入学し、寄宿舎に入るまで過ごした場所で、父の実家である水野家の屋敷があった。
 四迷は、本名を長谷川辰之助といい、尾張藩士の子として、市谷本村町尾張藩徳川家屋敷内(現在の防衛相)で生まれたと伝えられる。
 少年期に政治色が濃いロシア文学の影響を受け、東京外国と学校露語科に入学するが、後に中退し、専修学校専修大学)に学ぶ。その後、坪内逍遥の指導で創作活動に入り、明治二十年(1887)に言文一致体(である調)の」文章による日本で最初の小説「浮雲」を発表し、さらに「あいびき」「めぐりあい」などのロシア文学を翻訳するなど、日本の近代文学の先がけとなった。
 明治四十一年(1908)に朝日新聞の特派員としてロシアに渡るが、翌年帰国の途中、ベンガル湾上で肺炎のため死亡した。享年45歳であった。



◆四谷見附公園

迎賓館の入り口が近い。



 かつて、江戸は一大城塞都市であった。江戸城は防衛のため、複数の堀で囲まれていた。主要道路が堀を超えるところでは、道路は喰い違えといってコの字型に曲げられ、枡形の城門の中を通過させられた。この枡形の城門が見つけである。
 新宿方面にも、外堀を超えると四谷見附、市谷見附、牛込見附にそれぞれ城門が設けられていた。
 甲州街道では、四谷駅前交差点で左折し、また右折して、小売市場前を通って外堀を渡ると、内側に街道の要衝となる高麗門と見附番所があった。江戸へ入る人々は、ここを通り右折し、渡櫓門を出て、また左折して、半蔵門(内麹町口)方面へと向かった。これが本公園名称の由来となった四谷見附である。石垣は寛永十五年(1636年)に長州藩主毛利長門守秀就に命じられて建造された。城門は、寛永十五年に四谷口門普請奉行を命じられた室賀源七郎正俊、大岡左衛門正清により、建築された。当時は、外麹町口と呼ばれた。なお、麹町の地名は国府路に由来するとも言われる。国府路とは、武蔵国国府(現府中市)に通じる路を意味する。これが後の甲州街道の原型である。新宿は甲州街道の宿場として育ったが、四谷見附の城門は明治5年に撤去された。
 大正2年東京市は、交通上不便なので外濠に架橋して、甲州街道を麹町の通りへ直通させる工事を完成させた、「地域環境デザイン」の考え方に基づき、580mも離れた赤坂離宮(現迎賓館)などとの調和を考えてフランス様式(ネオ・バロック様式)のデザインで造られたこの橋は四谷見附橋と呼ばれた。
 目の前にある迎賓館の敷地は、大半は紀伊藩の江戸屋敷の地だった。徳川御三家尾張紀伊、水戸の屋敷が江戸城御曲橋(江戸城外堀の内側の総称)内から外に出たのは、明暦の大火(1657年)を経験した江戸幕府が棒か防災を重視して江戸の大改造を行った時である。隣にある若葉東公園の前身は長らく日除け地であった。旗本屋敷を前身とする本四谷見附公園は宮内省が管理する大正10年に皇太子御渡欧を記念して一般公開され、昭和7年からの東京市管理を経て昭和26年に区へ移管されたものである。都会における小さな自然のあり方と地域環境デザインとを意識し、歴史と文化をテーマとして新しく生まれ変わった四谷見附公園は、見附からは遠く離れても、これから21世紀に向かって自らも変貌をとげながら、さまざまな人間たちの活動を見ていくことになろう。





◆みなみもと町公園




 みなみもと町公園一帯は、昔から低い土地で、ヨシなどの繁った池沼があり、周囲の土地からわきだす水をたたえ、東南の方向へ流れて鮫河となり、赤坂の溜池にそそいでいました。
 江戸時代になってからは水田となり、寛永年間に行われた江戸城の外堀工事の際に余った土で埋め立てられて、町になったといわれています。
 鮫河には橋が架かっていて、鮫河橋と呼ばれていました。鮫河橋は「江戸名所図会」にもとりあげられて有名になったので、この付近一帯を鮫河橋と呼んだ時代があり、今でもみなみもと町公園前の坂に「鮫河橋坂」という名前を残しています。



で、「鮫河」と検索すると明治期には貧民窟だったと出てきた。
読んでみるとすごい。。。。。




◆鮫河橋坂

みなみもと町公園前にあった。
google mapに載っていたが、碑は建ってない。
先程の公園の説明板に記されているだけである。




続く。