前のエリアからまた西へ進んでいく。
ここももう何回も通った道だ(w
◆女夫坂
特に説明板などは無かった。
WEBで調べてみると、
「下り坂と上り坂が連続しているため女夫坂または夫婦坂と呼ばれる。」
とのことだった。
坂の途中にある阿祥山東福院に因んでこう呼ばれた。別名の天王坂は、明治以前の須賀神社が牛頭天王社と称していたため、この辺りが天王横町と呼ばれていたことによる。
◆須賀神社
3度目の訪問。
2018/01/13
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20180113/1515925669
2016/11/10
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20161110/1478939725
◆妙行寺
2018/01/13
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20180113/1515925669
2016/07/26
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20160726/1469622695
長谷川平蔵供養碑
池波正太郎の原作と中村吉右衛門のテレビ時代劇で広く世に知られる「鬼平犯科帳」の火付盗賊改の鬼平こと長谷川平蔵は延享三年(1746)江戸赤坂築地中之町(現港区赤坂6-12)の拝領屋敷で生まれた。姓は藤原、名は宣以。称は初め銕三郎、後に平蔵といった。寛延三年(1750)鉄砲洲築地湊町に転じ、明和元年(1764)本所三ツ目通り菊川安置に移った。父宣雄が火付盗賊改のとき、目黒行人坂の放火犯を捕らえて、京都西町奉行に栄進したが、わずか10ヶ月で急逝した。その後、宣以が家督を継ぎ、西城御書院番や御徒頭を勤め、御先手弓頭から火付盗賊改を兼帯。さらに石川島人足寄場を開設した。軽犯者や無宿者を収容して手業を習得させ、工賃の一部を積み立てて、出所時の更生資金に充て、授産所として成功させた功績は大である。
寛政七年、50歳で病没、当山に葬られた。
尚、当山には、鬼平の父宣雄ら5人の火付盗賊改が葬られている。
安部式部信旨 享保九年二月廿四日(1724・3・19)年
桑島肥後守政恒 宝暦七年十一月十日(1757・12・20)年
山岡豊前守景之 明和三年二月四日 (1766・3・14)年
長谷川備中守宣雄 安永二年六月廿日 (1773・8・14)年
菅沼主膳正虎常 寛政元年四月十六日 (1789・5・10)年
◆長安寺
中では法事中だった。
火防地蔵があるとのことだったが、どれだかわからなかった。
これは違う?
続く。