2018/03/24 舎人散歩 04 流山街道名地プチテラス/祠(名称不明)/スガマーケット/歩道橋/「大門」名の由来/賽積院/保木間氷川神社

毛長川からだいぶ南の方を西に向かって歩く。
歩いた道路の一部が「旧流山街道」だったようだが、
何の変哲もないただの路地だったのでよくわからなかった。



◆流山街道名地プチテラス

おじ様たちの社交場となっていた。





<流山街道>
 村の中ほどを東西に通り、成田参詣に通じる路で、別名成田道ともいった。街道に沿って阿弥陀院、玉蔵院、西光寺があり、西光寺の門田には不動尊を刻んだ道標があり
 「成田山へ是より十六里(約64km)榎戸まで二十町)」など記されている。
人家もこの道に沿って建てられ、名地、在家、原といったズシ(地縁集団)もこの道を挟んで発展してきた。


<細井宿(通称)>
 名主の細井左一氏が1862年文久二年〜1878年(明治十一年)の間、地元の十才前後の子に「よみ」「かき」を教え、礼儀行儀を重視した教育をした。


<朴堂小学校>
1878年(明治十一年)開設、細井宿の塾生五十七名がそのまま朴堂小学校へ移された。農家の子を対象とした夜学も開き教育した。
 1901年(明治三十四年)淵江尋常高等小学校(西保一)が朴堂小学校と竹の塚正矯小学校と合併し創立されるまで存続した。



◆祠(名称不明)





◆スガマーケット

よく昭和期にあった小さな商店が寄り合った施設だったんだと思う。
かなりシャッターが降りてるね。



◆歩道橋




名前がわからなかった。



◆「大門」名の由来




 大乗院(新義真言宗、小谷野山宝持寺大乗院)の創建は、平安時代と伝承され、また、文永九年(1272)との説もある。
 室町時代の中期には七堂伽藍が建ち並び、僧兵までかかえて、大変な権勢を誇っていたといわれる。
 濠で囲まれた広大な寺域の中に、本堂・観音堂・塔・薬師堂・鐘楼・山門・庫裡などが配置されていたが、一キロはあった参道の西側には、用水が流れ、道路脇には、大きな松並木があった。参道の西側及び大乗院の周辺の集落は、大門厨子と言い、門前集落としての位置づけである。
 当時は、年の瀬になると、山門から流山街道まで、大乗院に貢物を持って近郊からやって来る人が参道に列をなしたほどの絶大な権勢を誇っていたが、中央では、応仁の乱(1467)が始まり、関東でも古河公方足利成氏)と堀越公方足利政知)の対立が激化し、双方の前線基地の中間に位置するこの寺が、戦乱に巻き込まれ文明元年(1469)、敵側の焼き討ちに遭い、権勢を誇っていた七堂伽藍も焼失した。
 壮大な山門として入封を誇っていた”大乗院の大門今も大門厨子を中心とした住民の心の中にその精神が生きている。

 毎年1月7日の早朝、旧大門地区の住民が大乗院の境内に集まり、わらを編んで大蛇を作り、それを山門脇のイチョウの木にかけて、五穀豊穣と無病息災を祈願する「じんがんなわ祭り」の民俗行事がある。



大門厨子=だいもんずし
調べると、寺の周辺地域の24軒からなる「じんがんなわ保存会」の会員たちのこと。




◆賽積院





保木間氷川神社




保木間稲荷神社/疱瘡大神



天宇須女尊(天宇受売命・あめのうずめのみこと)




富士塚




御神楽?


鳥居



田中正造保木間の誓い

1890年代に発生した足尾銅山鉱毒事件は近代史上で特筆される公害事件である。1898年(明治三十一)9月群馬県邑楽郡・栃木県安蘇郡等の被害住民3000人が鉱毒被害を訴えるため上京した。
被害問題に取り組んだ田中正造(当時衆議院議員)は、同年9月28日、上京する被害住民とここ保木間氷川神社で出会い、鉱毒問題の解決に努力するという演説を行い、被害住民を帰郷に導いた。この時被害住民は涙して演説を聞いたといい、これを保木間の誓いという。
当時東京府南足立郡淵江村だったこの地では、村長坂田正助と村会議員が、上京途中憲兵や騎馬警官による阻止・排除を受けた被害住民に、炊き出しを行って出迎え、被害住民と共に正造の演説を聞いた(「田中正造日記」)。こうした被害住民への支援は淵江村の人々と被害住民の農民同士の連帯感によって支えられていたという。



流山道

本説明板の前(保木間氷川神社前)を東西に走る小道は、江戸の昔から流山道と呼ばれた古道である。保木間日光道中からわかれ、南花畑、内匠橋、六木を経て流山に向かう。この道に隣接する宝積院と保木間氷川神社は戦国時代の武士・千葉氏の陣屋があったと伝えられることから、道の成立は戦国時代以前にさかのぼると考えられる。
この道を東進すると花畑大鷲神社成田山と結んでおり、西に進むと西新井大師総持寺に通じる信仰の道でもある。ここから大師道・成田道という別称もある。なお沿道には寺院・神社や旧村地帯が分布し、保木間の旧家の多くもこの道に沿って建っており、地域の歴史を今に伝える。



この神社は以前来ている。
あまり詳しく紹介してないので、今回詳しく紹介してみた。
2016/07/02
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20160702/1467578916


続く。