2018/04/10 湯島散歩 01 御茶ノ水駅/湯島聖堂/相生坂/近代教育発祥の地/聖橋/糀室 附

24時間勤務アケで、湯島散歩。
この辺を散歩するのは10年ぶりくらいかな?
今まで「はてな」に文京区方面の日記がほとんどないのは、
それ以前に徹底的に散歩したころがあるから。



御茶ノ水

スタートの御茶ノ水駅。





湯島聖堂

聖橋からみた湯島聖堂



入徳門(にゅうとくもん)



杏壇門(きょうだんもん)



大成殿(たいせんでん)



楷樹(かいじゅ)





楷は曲阜 にある孔子墓所に植えられている名木で 初め子貢が植えたと伝えられ 今日まで植えつがれてきている。枝や葉が整然としているので 書道でいう楷書の語源ともなったといわれている。
わが国に渡来したのは、大正4年(1915)、林学博士 白澤保美氏が曲阜から種子を持ち帰り、東京目黒の農商務省林業試験場で苗に仕立てたのが最初である。これらの苗は当聖廟をはじめ儒学に関係深い所に頒ち植えられた。 その後も数氏が持ち帰って苗を作ったが 生来雌雄異株であるうえ 花が咲くまでに三十年位もかかるため わが国で種子を得ることはできなかったが 幸いにして数年前から二三個所で結実を見るに至ったので 今後は次第に孫苗が増えてゆくと思われる。
中国ではほとんど全土に生育し 黄連木 黄連茶 その他の別名も多く 秋の黄葉が美しいという台湾では燭心木とよばれている 牧野富太郎博士はこれに孔子木と命名された。
孔子と楷とは離すことができないものになっているが 特に当廟にあるものは曲阜の樹の正子に当る聖木であることをここに記して世に伝える




孔子銅像



斯文会館(しぶんかいかん)



仰高門(ぎょうこうもん)



神農廟(しんのうびょう)



案内板

湯島聖堂孔子

孔子は、2500年ほど前、中国の魯の昌平郷(現山東省済寧市曲阜)に生れた人で、その教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えた。儒学に傾倒した徳川五代将軍綱吉は、元禄3年(1690)この地に「湯島聖堂」を創建、講師を祀る「大成殿」や学舎を建て、自ら「論語」の講釈を行うなど学問を奨励した。



昌平坂学問所跡>
寛政9年(1797)幕府は学舎の敷地を拡げ、建物も改築して、孔子の生れた地名をとって「昌平坂学問所」(昌平黌(しょうへいこう)ともいう)を開いた。
 学問所は、明治維新(1868年)に至るまでの70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たした。
 学問所教官としては、柴野栗山(しばのりつざん)、岡田寒泉(おかだかんせん)、尾藤二州(びとうにしゅう)、古賀精里(こがせいり)、佐藤一斎(さとういっさい)、安積昆斎(あさかごんさい)、鹽谷宕陰(しおのやとういん)、安井息軒(やすいそくけん)、芳野金陵(よしのきんりょう)らがおり、このうち斎藤一斎、安積昆斎らはこの地が終焉の地となっている。



<近代教育発祥の地>
明治維新により聖堂は新政府の所管となり、明治4年(1871)に文部省が置かれたほか、国立博物館(現東京国立博物館国立科学博物館)、師範学校(現筑波大学)、女子師範学校(現お茶の水女子大学)、初の図書館「書籍館(しょせきかん)」(現国立国会図書館)などが置かれ、近代教育発祥の地となった。



<現在の湯島聖堂
もとの聖堂は、4回の江戸大火に逢ってその都度再建を繰り返すも、大正12年(1923)関東大震災で焼失した。その後「仮聖堂」を営み、昭和10年(1935)鉄筋コンクリート造で寛政の旧に依ってさいけんされ、今日に至っている。入徳門は宝永元年(1704)に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっている。





◆相生坂




 神田川対岸の駿河台の淡路坂(あわじざか)と並ぶので相生坂という。
 『東京案内』に、「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。昔はこれに並びてその西になお一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある。そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。
 昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。

これやこの 孔子の聖堂 あるからに

       幾日湯島に い往きけむはや  

                   法月歌客





◆近代教育発祥の地




 江戸時代、このあたりは学問(儒学)の府であった聖堂(孔子廟)の一部、昌平坂学問所(昌平黌)があったところである。
 寛政9年(1797)学問所の学寮、宿舎が建てられ、旗本は藩士の子弟を対象とした教育が施された。
 明治維新後、学問所は新政府に引き継がれ、昌平学校、大学校、東京大学と発展していった。
 明治4年(1871)に文部省が設置され、我が国の近代教育の原点となる施策が展開されることになった。当地には明治5年(1872)師範学校(翌年、東京師範学校と改称)が開校し、その後、隣接地に東京女子師範学校が置かれた。
 東京高等師範学校は明治36年(1903)に大塚窪町に移転し、後に東京教育大学(現筑波大学)となり、東京女子高等師範学校昭和7年(1932)大塚に移転し、後に新制大学としての発足の折、この場所の地名を校名に冠し、お茶の水女子大学と称し現在に至っている。




◆聖橋

下から撮った姿が一番いいと思うのだが、今は工事中なので終わったら取りに来よう!







◆糀室 附







 天野屋の糀室は、明治37年(1904)に建築されたもので、現在でも天野屋で製造・販売する甘酒や味噌などの糀製造に使用しています。この室は、関東ローム層を地下6メートルまで掘り、天井をアーチ型に形成した地下室で、壁・天井には煉瓦が張られています。
 天野屋の創業は、弘化3年(1846)と伝えられ、明治37年(1904)糀室之図(千代田区所有・天野博光氏寄贈)によれば、かつては竪坑から複数の室が放射状にのびていたことがわかります。またこの図面には、天野屋の創業以前に成立していたと伝えられる室や、明治期の増設された室が描かれており、天野屋では、長い年月の間に室の改築を繰り返しながら使用してきたことを示しています。しかし放射状に配置されていた室は、平成3年(1991)に「床場」(糀菌をつけた米を熟成させるための室)などの一部分を除いて取り壊されました。
 変損する糀室は、震災・戦災をくぐり抜けて建築当時の構造を残しており、100年以上もの間、糀製造のために使用され続けているという点では、区内で唯一、都内でも数少ない存在といえます。そして、糀製造使節の価値のみならず、江戸時代から引き継がれる糀製造や商いの変遷などを示す文化財としても稀少な物件のため、千代田区指定有形文化財(建造物)に指定しました。
 なお、糀室は実用しているため一般公開はしていません。




続く。