2018/04/10 湯島散歩 04 妻恋坂/立爪坂/三組坂/ガイ坂/実篤坂

妻恋神社の北側を散策。
ご覧の通り坂ばっかりである。



◆妻恋坂




大超(だいちょう)坂・大潮(だいちょう)坂・大長(だいちょう)坂・大帳(だいちょう)坂 と別名を多く持つ坂である。
『新撰東京名所図会』に、「妻恋坂は妻恋神社の前なる坂なり。大超坂とも云ふ。本所霊山寺開基の地にて、開山大超和尚道徳高かりしを以て一にかく唱ふといふ」とある。
この坂が「妻恋坂」と呼ばれるようになったのは、坂の南側にあった霊山寺が明暦の大火(1657年)後浅草に移り、坂の北側に妻恋神社(妻恋稲荷)が旧湯島天神町一丁目あたりから移ってきてからであろう。




◆立爪坂

特に説明板などは無かった。
つま先を立てて上る坂という意味で、険しい坂だったと推察される。




◆三組坂






 元和2年(1616)徳川家康駿府で亡くなり、家康お付きの中間(ちゅうげん)・小人(こびと)・駕籠方(かごかた)の「三組」の者は江戸へと召し返され、当地に屋敷地を賜った。駿河から帰ったので、里俗にこのあたり一帯を駿河町と呼んだ。
 その後、元禄9年(1696)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして、町名を「三組町」と改めた。
 この町内の坂であることから「三組坂」と名づけられた。
 元禄以来、呼びなれた三組町は、昭和40年(1965)4月以降、今の湯島3丁目となった。




◆ガイ坂

特に説明板などは設置されていなかった。
「ガイ」は芥の濁音ということまでは調べられた。




◆実盛坂

この坂を見たときは一瞬気が遠くなった(w





 『江戸誌』によれば「・・・湯島より池の端の辺りをすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が『江戸砂子』や『改撰江戸志』にのっている。この実盛のいわれから、坂の名がついた。
 実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現・埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。寿永2年(1183)、源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光盛に討たれた。
 斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。この話は『平家物語』や『源平盛衰記』に詳しく記されている。
 湯島の”実盛塚”や”首洗いの井戸”の伝説は、実盛の心意気にうたれた土地の人々が、実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。



続く。