2018/04/12 湯島散歩 03 神田元佐久間町/道路のみどり記念碑/日本最初の喫茶店/鱗祥院/箭弓稲荷神社/中坂

西洋医学所跡から北西の方向に歩く。



◆神田元佐久間町




ここはかつて神田元佐久間町と呼ばれていました。
江戸時代、この界隈には豊前小倉藩小笠原家の中屋敷がありました。
明治二年(1869年)十二月に発生した火事で、このあたりは様相を一変します。神田相生町から出た火は、現在の外神田周辺を焼き尽くしたといわれています。明治新政府は、神田佐久間町一丁目内にあった神田柳屋敷などに火除地(ひよけち)(防火のための空き地)を設置しました。そのため、そこに住んでいた人々が代地として小笠原家屋敷跡に移転してきたのです。明治三年(1870年)のことでした。
神田元佐久間町の町名が生まれたのはこの時です。新たに生まれたこの町を神田佐久間町と区別するため「元」が付けられたのです。
明治四十四年(1911年)、いったん元佐久間町と改称されましたが、昭和二十二年(1947年)、千代田区ができたときに町名はふたたび神田元佐久間町となりました。この町名は、一帯が住居表示の実施によって外神田五丁目となる昭和三十九年(1964年)まで使われていました。



◆道路のみどり記念碑




google map に載っていたので来てみた。
足元にあるのに気が付かず、何度も付近を往復する。
というか、これってMAPに載せるほどのものなのかな・・・・・。




◆日本最初の喫茶店「可否茶館(かひさかん)」跡地



明治21年(1888年)4月13日、日本人による初めての喫茶店が、鄭永慶(別名・西村鶴吉)によりこの地に設立された。
二百坪の敷地に五間と八間の二階建ての木造洋館であった。

一階には『トランプ, 玉突き, クリケット, 碁, 将棋』を揃え、また硯に便箋や封筒もおき、更衣室,化粧室,シャワー室,調理場などの設備の他に、『内外の新聞, 雑誌類, その他和漢洋書, 書画を蒐集縦覧に供す』部屋を設け、二階が喫茶室で、丸テーブル, 角テーブルを配置, 椅子は籐であった。

コーヒーは一杯一銭五厘、牛乳入りが二銭であり、一品料理, パン, カステラなども出していた。ちなみに当時、「もりそば」は八厘であった。
設立者の鄭永慶は、近松門左衛門作の「国性爺合戦」で有名な
鄭成功の弟、七左衛門を先祖にもち、庶民のためのサロンとして、また知識も学べる広場(コーヒーハウス)とすることを理念としての開店であった。




◆鱗祥院

表の門だけ、写真を撮らせてもらった。




◆箭弓稲荷神社








◆中坂(仲坂)




「御府内備考」に、「中坂 は妻恋坂 と天神石坂 との間なれば呼名とすといふ」とある。
 江戸時代には、二つの坂の中間に新しい坂ができると中坂と名づけた。したがって中坂は二つの坂より後にできた新しい坂ということになる。
 また、『新撰東京名所図会』には、「中坂は、天神町1丁目4番地と54番地の間にあり、下谷区へ下る急坂なり、中腹に車止めあり」とあり、車の通行が禁止され歩行者専用であった。
このあたりは、江戸時代から、湯島天神(神社)の門前町として発達した盛り場で、かつては置屋・待合などが多かった。
まゐり来てとみあかるき世なりけり
町屋の人のその人の顔かお (釈 迢空(ちょうくう))



続く。