2018/04/12 湯島散歩 05 石川啄木歌碑/本富士警察署/本郷消防署/五社稲荷神社/富士浅間大神/旧本富士町

湯島天神の周辺を散策した後は西へ向かう。



石川啄木 歌碑

湯島天神の夫婦坂をおりたところから切通坂を少し上がったところにあった。




 この歌は、石川啄木(1886 〜 1912)の明治四十三年(1910)の作で、『悲しき玩具』に収められている。文字は、原稿ノートの自筆を刻んだ。
当時啄木は、旧弓町の喜之床(きのとこ)(現本郷二ノ三八ノ九・新井理髪店)の二階に間借りしていた。そして、一家五人を養うため、朝日新聞社に校正係として勤務し、二晩おきに夜勤もした。
夜勤の晩には、終電車で上野の広小路まで来たが、本郷三丁目行きの電車はもう終わっている。湯島神社の石垣をまさぐりながら、暗い切通坂を、いろいろな思いを抱いて上ったことであろう。
喜之床での二年二か月の特に後半は、啄木文学が最高に燃焼した時代である。この歌は、当時の啄木の切実な生活の実感を伝えている。
文京区内で、最後に残っていた啄木ゆかりの家 "喜之床" が、この三月十八日に、犬山市の博物館「明治村」に移築、公開された。



本富士警察署

悪いことをしたわけではありません(w




◆本郷消防署




◆五社稲荷神社








◆富士浅間大神

工事中だった。
職人さんが声をかけてくれて、18日に完成するのでそのあとにいらっしゃいとのことでした。
もうからないんだけど、好きだからこの仕事をしてるって言っていた。
いいなあ。



旧本富士町

 元和(1615〜24)のころ、この地は加賀藩主前田利常(としつね)に賜った。その御加賀屋敷の東部は富山・大聖寺(たいしょじ)両支藩の屋敷になった。
 明治4年、三邸とも文部省用地となった。のち大部分が東京大学の校地となった。
 明治5年、町名を本富士町とした。駒込富士神社が元ここにあったからである。






◆旧本富士町



徳川家康の江戸入り後、この地を藤堂高虎(とうどうたかとら)に賜り、後元和の頃(1615〜24)加賀藩主前田利常に賜った。
 その後、加賀屋敷の東部を富山・大聖寺の両前田支藩の屋敷とした。
 明治4年、三邸とも文部省用地となった。明治5年、初めて町名を本富士町とした。
 町内の大部分は東京大g区の構内である。加賀屋敷の遺跡は、現在三四郎池(旧前田家の庭園行徳園(いくとくえん)の心字池)と赤門(御守殿門)などがある。
 ”加賀門をも一つつけるご注文”(古川柳)
 赤門は家斉将軍の娘溶姫(やすひめ)が、前田成泰(なりやす)に嫁入りしたときに造られた。



続く。