2018/04/22 久地散歩 03 稲荷橋/稲荷神社/中宿地蔵尊/徒然草百十五段石碑/尋常第三稲田小学校建立の地/上宿地蔵尊

二ケ領用水沿いに宿河原駅方面に歩く。
ちょっと行ったり来たりしちゃった・・・・。





◆稲荷橋






◆稲荷神社



境内社




なんだろう?






◆中宿地蔵尊








徒然草百十五段石碑




 宿河原といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来たるぼろぼろの、「もしこの御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、ここに候ふ。かくのたまふは、誰そ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。己れが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゆしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。こゝにて対面し奉らば、道場を汚し侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方をもみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、仏事の妨げに侍るべし」と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり。




 この石碑に刻まれている物語は、我が国古典の代表的な随筆作品といわれる『徒然草』の第百十五段である。「宿河原といふ所にて…」という書き出しではじまるこの物語では、ぼろぼろと称される遁世者が、自分の師の敵討ちをする話である。さて冒頭の「宿河原」の地名であるが、一説では川崎市多摩区宿河原の地とされる。中世において「宿」は河川の渡河地点など交通の要衝地に発生し、市が開かれ人々が集住するなど都市的な景観を呈していた。さらに「宿」は宗教者たちが道場や寺院を建て、教線を拡大する拠点でもあった。この話の中でも、ぼろぼろが集まって極楽往生のために念仏を唱えている様子が語られている。
 さてここ宿河原には、現在は下綱会館となっている地に阿弥陀堂があったといわれる。また元は長尾山の中腹にあったものを移築したとも伝えられている。そして会館には、阿弥陀如来像が安置され念仏供養が行なわれている。
 この石碑は、宿河原の地名を記したと考えられる最古の書物である『徒然草』の物語を刻み、また古くからあった念仏供養の姿を後世に伝えるため、宿河原町会によって建立された。土地の歴史の一つとして、末来にわたって伝えられていくことを願う次第である。




◆尋常第三稲田小学校建立の地




 明治25年、宿河原学校は尋常第三稲田稲田小学校と改称され、同年小学校修業年限1年生の小学校として発足した。当時生徒数97名で長福寺内の教室では手狭となり、翌明治26年4月7日、この碑の東側宿河原6丁目12、25番地小川氏邸内移転した。敷地は353平方米(107坪)、2階建木造校舎延132平方米(10坪)であった。初代校長には大伴次郎氏で当時この学校を宿之島学校とも呼んだ。この後者は大正2年2月まで存続し後に現在の稲田小学校の所に移転した。
 この新道の建設に当たり、稲田小学校の発展経過の一端をとどめるためこの碑を建てたものである。





◆上宿地蔵尊





続く。