2018/04/30 本郷散歩 08 本郷菊富士ホテル跡/菊坂通り/本妙寺坂/炭団坂/坪内逍遥旧居・常磐会跡/旧真砂町

どんどん南下する。
また坂が多いエリアに突入する。



◆本郷菊富士ホテル跡






明治三十年岐阜県大垣出身の羽根田幸之助、菊江の両親が此の地に下宿菊富士楼を開業し大正三年五層楼を新築 菊富士ホテルと改名し営業を続けたが昭和二十年三月十日第二次大戦の戦災に依り五十年の歴史を閉じた 此の間菊富士ホテルに止宿した内外の文学芸術思想医科学政治経済各界に亙り多くの逸材を輩出 近代日本の歩みに曙光を放ちてその名を今日に及ぶ。この菊富士ホテルの名を永く記念する





菊坂通り




本妙寺



 この坂は、本郷の台地から菊坂へ下っている坂である。菊坂をはさんで真向かいの台地には(現在の本郷5-16あたり)かつて本妙寺という法華宗の寺があった。境内が広い大きな寺で、この寺に向かって下るであったところから「本妙寺坂」と呼ばれた。
 本妙寺は明暦の大火(振袖火事・明暦3年-1657)の火元として有名である。明治43年豊島区巣鴨5丁目に移転した。




ほぼ真向かいに「真砂遺跡」の説明板があった。

 文京区男女平等センターの建っているこの地に、江戸時代の宝永元年(1704)から安政5年(1858)までのおよそ150年間、唐津佐賀県)藩主・小笠原氏の中屋敷、そして幕末まで上田(長野県)藩主・松平氏中屋敷があった。
 現在の建物を建築するにあたり、昭和59年に発掘し調査した結果、数々の遺構と遺物を検出し、当時の武家屋敷とそこで働く人々の生活を知る貴重な資料を得ることができた。この遺跡をもとの町名にちなんで「真砂遺跡」と命名した。
 出土品で最も多かったのは、生活用具としての陶磁器であったが、文京区内では非常に珍しい1万8千年位前に使われたと思われる黒曜石の矢じり、18世紀にオランダでつくられた土製のクレイパイプなどが発見された。遺構としては、火災の時の荷物の避難場所、あるいは酒やみその発酵場所と考えられる40に及ぶ地下室、千川上水を引き込んだ上水道遺跡等が発掘され、多大な成果を収めた。






炭団



本郷台地から菊坂の谷へと下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということからつけられたといわれている。
 台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階段や手すりがないころは、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。
 この坂を上りつめた右側の崖の上に、坪内逍遥明治17年(1884)から20年(1887)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。





坪内逍遥旧居・常磐会跡




 坪内逍遥(1859〜1935)は、本名雄蔵、号は逍遙、または春廼舎おぼろで、小説家、評論家、教育家である。明治17年(1884)この地(旧真砂町18番地)に住み、『小説神随』(明治18年〜19年)を発表して勧善懲悪主義を排し写実主義を提唱、文学は芸術であると主張した。その理論書『当世書生気質』は、それを具体化したものである。門下生・嵯峨の舎御室は「逍遙宅(春廼舎)は東京第一の急な炭団坂の角屋敷、崖渕上にあったのだ」と回想している。
 逍遙が旧真砂町25番地に移転後、明治20年には旧伊予藩主久松氏の育英事業として、「常盤会」という寄宿舎になった。俳人正岡子規 は、明治21年から3年余りここに入り、河東碧梧桐俳人)も寄宿した。また舎監には内藤鳴雪俳人)がいた。

 ガラス戸の外面に夜の森見えて清けき月に 鳴くほととぎす  正岡子規
(常盤会寄宿舎から菊坂 をのぞむ)




◆旧真砂町



 寛永(1624~44)以来、真光寺門前と称して桜木神社前の一部だけが町屋であった。
 明治2年、古庵屋敷を併せて真砂町の新町名をつけた。浜の真砂のかぎりないようにと町の繁栄を願って命名した。
 明治5年には、松平伊賀守(信州上田藩・5万8千石)屋敷や、松平右京亮(上野高崎藩・8万2千石)の屋敷などの武家屋敷跡を併せた。右京亮の中屋敷跡は右京ヶ原(右京山とも)といわれ長らく原っぱであった。富田常雄 の名作『姿三四郎』の三四郎と源三郎の対決の舞台となった。
 真砂町は、泉鏡花 の『婦系図』恩師酒井先生の”真砂町の先生”でよく知られている。




続く。