24時間勤務アケで、水道橋から文京区西片まで散策。
帰りはやや西側を水道橋まで歩いて戻ってきた。
スタートは水道橋駅だけど、今回は写真を撮らなかった(w
◆小石川七福神(福禄寿)
東京ドームシティの中にある。
錦秋稲荷神社がこの近くにあるはずなんだけど、見つからなかった。
今度ゆっくり探してみよう。
◆春日駅
もと上州高崎藩主(七万二千石)松平右京亮の中屋敷であった。明治維新後土地は家臣に与えられた。後、下真砂・春日通り沿いの地の他は、政府の所有となり、陸軍省や文部省の所有となった。
長らくこの台地は原っぱで、子供たちのよい遊び場であった。そして、右京亮にちなんで右京山(右京ヶ原)と呼ばれた。
文部省用地は、大正11年に東京市に払い下げられた。市は住宅、独身者アパート(清和寮)や真砂小売市場(現区民センター内)などを造った。
小説『婆三四郎』(富田常雄作・昭和17年刊)の中で、三四郎と檜垣源之助との死闘の場となった。
また、近くの旧菊坂町時代の樋口一葉は、妹と虫の音を聞きに来た。また、「この夜、母君とともに右京山に畑火見る。九段の祭にて、ここよりよく見ゆればなり」と明治26年5月7日の日記にある。
本郷台地から菊坂の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」(『江戸志』)とか、その形が「鐙に似ている」ということから名付けられた(『改撰江戸志』)などといわれている。
この坂の上の西側一帯は上州高崎藩主大河内家松平右京亮(まつだいらうきょうのすけ)の中屋敷で、その跡地は右京山と呼ばれた。
◆金田一京助・春彦旧居跡
金田一京助(言語学者)は、明治15年(1882)岩手県盛岡に生まれた。
東京大学言語学科卒業後、昭和17年(1942)から同大学において教授として教鞭を執り、のちに国学院大学教授となった。
東京大学在学中からアイヌ民族に関る言語、文学、民族の研究を始め、北海道・サハリン(樺太)のアイヌ居住地を歴訪し、実地調査と研究により、アイヌ語を初めて学問的に解明し、アイヌの叙事詩ユーカラを世に始めて紹介した。アイヌに関る多くの著書は、日本列島における北方文化を学ぶ者の原点ともなっている。これら数々の功績により、昭和29年(1954)には、文化勲章が授与された。
盛岡中学時代、2年下級に石川啄木が在籍していた。石川啄木は中学を卒業後、盛岡から上京、京助を尋ね、急速に文学への関心を高めていった。京助は啄木の良き理解者であり、金銭的にも、精神的にも、類まれな援助者であった。
金田一京助の長男、春彦(国語学者)は、大正2年(1913)ここ本郷の地で生まれた。大正9年(1920)からの5年間、近くの真砂小学校(現本郷小学校)に在籍。この頃唱歌の音階に関心を持ち、それが後の平家琵琶やアクセント研究のきっかけとなった。東京大学国文学科を卒業後、名古屋大学・東京外国語大学、上智大学などで教鞭を執った。
全国各地のアクセントを調査研究し、国語アクセントが歴史的かつ体系的に変化することを初めて実証した。また、数多くの国語関係辞書等を編纂を通じて、その研究成果を一般に普及させた。第50回(平成9年度)文化功労者表彰受賞、平成13年度東京都名誉都民。
◆樋口一葉旧跡
この一枚の写真の中に、樋口一葉旧居跡と樋口一葉が使っていたとされる井戸がある。
現地に説明板などは何もなかった。
「梨木坂は菊坂より丸山通りなり。むかし大木の梨ありし故坂の名とす。」と『御府内備考』にある。また、『南向茶話』には、「戸田茂睡(江戸前期の歌学者、『紫の一本』の著者、1629〜1706)という人が、この坂のあたりに住んでおり、梨本と称した」とある。
いっぽう、江戸時代のおわり頃、この周辺は、菊の栽培が盛んで、菊畑がひろがっていたが、この坂のあたりから菊畑がなくなるので、「菊なし坂」といったという説もある。
戦前まで、この近くに古いたたずまいの学生下宿が数多くあった。
続く。