2018/05/02 西片散歩 02 火伏稲荷/一葉ゆかりの伊勢屋質店/胸突坂/旧太栄館/新坂/清水橋/大椎樹の跡

また坂スポット。
今回もかなりきつい坂が多い。



◆火伏稲荷大明神




◆一葉ゆかりの伊勢屋質店




 万延元年(1860)、この地で創業し、昭和57年に廃業した。樋口一葉(1872〜96)と大へん縁の深い質店であった。
 一葉の作品によると、一葉が明治23年、近くの旧菊坂町(現本郷4丁目)の貸家に母と妹と移り住んでから、度々この伊勢屋に通い、苦しい家計をやりくりした。明治26年下谷竜泉寺町に移ってからも、終焉の地(現西片1〜17〜8)にもどってからも、伊勢屋 との縁は続いた。
 一葉が、24歳の若さで亡くなった時、伊勢屋の主人が香典を持って弔ったことは、一葉とのつながりの深さを物語る。店の部分は、明治40年に改築した。土蔵は、外壁を関東大震災後ぬり直したが、内部は往時のままである。

〜一葉の明治26年5月2日の日記から〜
此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ、羽織二つ、一風呂敷につゝみて、母君と我と持ゆかんとす。
  蔵のうちにはるかくれ行ころもがへ





◆胸突坂




説明板などは確認できなかった。
名前の由来は他の場所にもある同名の坂と同じで、胸を突くくらいキツイ急な坂であるからだと思う。
実際かなりの旧坂だった。




◆旧太栄館(石川啄木旧宅・蓋平館別荘跡)




たぶんこの建設中の建物の場所にあったと思われる。
説明板などは確認できなかった。
石川啄木ゆかりの宿で、2014年6月に閉店したとのこと。
10年くらい前にこの近辺を訪れたときの写真がmixiにあるかもしれないなあ。
探してみよう。





◆新坂




  区内にある新坂と呼ばれる六つの坂の一つ。『御府内備考』に、「映世神社々領を南西に通ずる一路あり、其窮る所、坂あり、谷に下る、新坂といふ」とある。名前は新坂だが、江戸時代にひらかれた古い坂である。
 このあたりは、もと森川町と呼ばれ、金田一京助の世話で、石川啄木が、一時移り住んだ蓋平館別荘(現太栄館)をはじめ、高等下宿が多く、二葉亭四迷尾崎紅葉徳田秋声など、文人が多く住んだ。この坂は、文人の逍遥(しょうよう)の道でもあったと思われる。




◆清水橋







◆大椎樹の跡

西片公園の中にある



 みなさんは、この大きな石のおもてに書いてある字が読めますか。これは、「大椎樹(おおしいのき)」とよみます。
 むかしこの石のうしろには、四百年もいきていたといわれる、写真のような大きなシイの木がありました。(この石の近くにある、大きな木もシイの木です。)
 写真の木は、江戸時代にこの西片公園のまわりが、阿部伊勢守(あべいせのかみ)というおとの様、今の広島県東武を領地としていた大名。)の屋敷だったので「阿部の大椎の木」とよばれていました。そのころは、水道橋の近くからも見えたそうです。ところが大正二年に大風にあってから弱りはじめ、昭和二十三年にかれてあぶなくなったので、とうとう切りたおされてしまいました。
 砂場の先にあるシイの木は、昭和十五年に「大椎樹」の、あとつぎの木として、西片町会のみなさんによって植えられ、「世継ぎの椎」とよばれております。みなさんもこのような思いをこめて植えられた「世継ぎの椎」をはじめこの園内や町の中の緑を、大切にしてあげてください。




江戸時代は、豊後福山藩主の阿部丸山屋敷と、幕府の徒士(かろ)組(将軍の警護と先ばらい)の屋敷であった。
 当時は、単に東片町向側といっていた。中山道を挟んで、駒込東片町の反対側にあったからである。
 明治5年、東片町に対して初めて西片町の町名を付けた。
 明治以来、町内には学者や無jj人が多く住み、一名学者と言われた、夏目漱石佐佐木信綱もここに住んだ。
 誠之(せいし)小学校は、阿部家から敷地や校具などの寄付を受け明治8年に開校した。校名は、福山藩の藩校の名称誠之館からとった。




西片公園






続く。