2018/06/18 高円寺散歩 04 警視庁第四方面/帝京平成大学/中野四季の森公園/東映アニメーション本社/御囲跡/中野史跡

このエリアでは中野駅に向かって南進する。
再開発されたばかりの地区で巨大なビルが整然と並んでいる。



◆警視庁第四方面




帝京平成大学




◆中野四季の森公園



中野四季の森公園 いまとむかし

 広大な武蔵野台地であったこのあたりを最初に使用したのは「生類憐みの令」で有名な第五代将軍徳川綱吉が設けた幕府の野犬保護施設である犬屋敷でした。この屋敷は御囲御用屋敷ともよばれ、中野四丁目あたりの旧町名「囲町(かこいちょう)」はこれに由来します。この犬屋敷の敷地は現在のJR中央線をはさんで約30万坪(100ヘクタール)におよび、5つの犬囲いが設けられ、最盛期には約10万頭を収容・飼育していました。元禄8年(1695年)末に収容を開始して、宝永6年(1709年)に廃止されるまで15年間存続しました。その後、第八代将軍吉宗の時代には御囲跡の一部に桃が植えられ花を楽しむ江戸市民で賑わったといわれています。

 時は流れ、明治期から第二次世界大戦終戦までは陸軍関係の施設がありました。陸軍の鉄道隊・電信隊・気球隊兵舎が明治30年(1897年)に創設され、後に交通兵旅団司令部も置かれましたが、やがて鉄道隊・気球隊は千葉県下に移転し、電信隊のみが残り、第一電信連隊と改称しました。その後にできたのが陸軍中野学校でした。この学校は「諜報諜略の科学化」に対応するための要員育成所」として設けられたといわれています。

 戦後、この地は警視庁警察大学校と警視庁警察学校として、施設が移転する平成13年(2001年)まで使用されました。警察庁警察大学校の施設としては校舎、寮、体育館、図書館、グラウンド、テニスコート等が設置されていました。

 そして平成24年(2012年)3月30日、「中野四季の都市」となり、その一角にこの「中野の森公園」を整備しました。今まで国の公共施設用地として使用され、区民に馴染みのなかったこの地は業務ビルや大学、病院などが立地して新たな活力を生み出す都市空間として生まれ変わりました。今後は区民の安全・安心を守り、多くの人々が集う憩いの場となる事を願っいてます。




東映アニメーション本社

google mapにそう載っていたので来てみたが無かった。
後で調べるとこのビルの5階にあるようだった。




◆御囲跡




 この付近一帯は、徳川五代昭文綱吉の時代(元禄八年=1695年)に作られた、「犬屋敷」があったところです。
 犬の像は、その歴史を語り伝えようと、東京セントラルライオンズクラブが寄贈してモノです。




◆中野史跡




 犬屋敷は、十五代将軍徳川綱吉が設けた幕府の野犬保護施設で、犬をかこって飼育したことから「お囲い御用屋敷」ともいいました。中野四丁目あたりの旧町名「囲町(かこいちょう)」はこれに由来します。
 綱吉は「生類憐みの令」によって殺生を禁じ、特に犬の保護策を強行して、江戸郊外の中野に最も大規模な犬屋敷を造らせ、支配役以下多数の役人や医者を置いて、野犬の飼育にあたらせました。
 犬屋敷は元禄八年(1895)末に収容を開始し、綱吉の死去により宝永六年(1709)に廃止されるまで、十五年間存続しました。敷地は現在の区役所を中心にJR中央線をはさんで約三十万坪(百ヘクタール)に及び、五つのお囲には、各数百棟の犬小屋・餌場・日除場・子犬飼育場があって、最盛期には十万頭以上、飼育費は年額九万八千両以上に達しました。その後、幕府は方針を変えて、めす犬の収容を主体とし、他は近在の農家に養育料をつけて預けることにしました。犬屋敷の莫大な費用は、江戸の商家や天領の農民たちの負担で賄われました。




 古来中野後は武蔵野の中央に位する意と新編武蔵風土寄稿に述べられ、慶永年間(1400)紀州の人鈴木九郎正蓮がこの地を拓き、文明九年(1477)四月には太田同感が江古田原に豊島氏と戦い、これを破って江戸築城の基を開いた。永禄年間(1560)の小田原衆所領役帳には、中野内正歓寺、阿佐谷、大場などの地名があり、本郷、雑色、江古田等を抱合した今日の中野区の先駆が既に見られる。
 この地は江戸初期より将軍、大名の鷹狩の地として著名であり、元禄八年(1695)には5代将軍綱吉が「生類憐みの令」を出して犬小屋を設ける多数の犬を飼育し、次いで享保二十年(1736)八代将軍吉宗はこの地の景勝を賞して桃園を経営せしめ、御立場大名山等を設けて江戸士民遊歩の處とした。降って明治29年に中野電信隊、鉄道隊、気球大隊が創設され、次いで陸軍中野学校が設置せられた。特に電信隊は永く存して我国電信技術の発達に貢献する処、大であった。
 昭和20年8月15日第二次世界大戦終結に伴い、一時進駐軍の駐留するところとなりこれが撤収の後、警察大学校の設立ありたるも、その後この地は中野区発展の要衝とすべしとの衆議に応え、同校の移転跡地の内、その一部は庁舎建設用地として中野区有地となし。昭和43年10日本庁舎落成と共に、中野区政中核の地と定められた。




続く。