2018/06/26 小石川散歩 01 茗荷谷/竹早公園/竹早小学校跡/高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡/環三通り桜並木の由来/播磨坂桜並木

24時間勤務アケで、丸の内線「茗荷谷」から中央・総武線飯田橋」まで散策。
散歩するには暑い季節になってきたね。



◆丸の内線茗荷谷駅

今年の春に桜を見に一度来た場所。
ここからスタートです。






◆竹早公園



立葵かな?



◆竹早小学校(竹早国民学校)跡

上記、竹早公園内にあった。


 1928年(昭和3年)4月1日、竹早小学校がこの地で開校した。旧竹早町と久堅町の一部を学区として、近隣4校からの5年生以下の児童472名と教員14名、12学級をもってスタートした。現在の小石川図書館とテニスコートがある場所で、校舎は木造2階建であった。校名は、所在地の竹早町からとった。
 校訓”剛健、協同、勤勉”のもとに、充実した新しい学校創りを目指して、児童も教職員も、保護者も努力を傾けた。
 残念なことに、昭和20年(1945)5月25日の空襲により校舎が焼失し、1946年(昭和21)3月、在校生、卒業生の愛惜の想いを残し、18年間の歴史の幕を閉じた。

校歌(一部) 理想も高く伸び出づる 
           竹の剛さを健げさを  
                 永劫(とわ)に矜(ほこ)りの竹早校




高橋泥舟山岡鉄舟旧居跡



 下図の高橋・山岡は、それぞれ高橋泥舟山岡鉄舟の屋敷である。高橋家は享保5年(1720)、山岡家は文化8年(1811)以降この地に移り住んだものと思われる。
 泥舟は槍術の大家山岡静山の弟で、母型の実家である高橋家を継ぎ、25歳のとき幕府講武所師範となる。鉄舟は剣術を北辰一刀流の千葉道場に通い、槍を静山に習った。鉄舟は旗本小野家の出身であるが、静山の妹英子(ふさこ)と結婚し、山岡家を継いだ。
 二人は、文久2年(1862)12月、清河八郎の呼びかけで、近藤勇らが参加し結成された浪士隊の取締役を幕府から命ぜられ、上洛するが、清河の攘夷尊王の策謀が発覚し、江戸に帰府した。
 慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦い幕府軍が破れ、官軍が江戸に迫ると、泥舟は前年に大政奉還した元十五代将軍徳川慶喜に恭順を説き、身辺警護に当たった。鉄舟は
勝海舟の使者として、駿府の官軍参謀の西郷隆盛に会い、江戸城無血開城への道を開いた。
 海舟、泥舟、鉄舟の維新の三舟と呼び、維新の重要な役割を担った。




◆環三通り桜並木の由来




 かつて、このあたりは常陸府中藩主松平播磨守の上屋敷で、坂下には千川(小石川)が流れ、「播磨田圃」といわれた田圃があった。戦後できたこの坂は、播磨屋敷の跡地を通り、「播磨田圃」へ下る坂ということで、「播磨坂」とよぶようになった。
 坂の桜並木は、戦後間もない昭和22年(1947)、地元の人たちが植えたのがはじまりである。昭和28年(1953)には小針平三氏他、有志からの苗木寄贈により桜並木が生まれた。その後、並木植樹帯の整備がすすみ、平成7年(1995)には装いを新たにした桜並木が完成した。
 昭和43年(1968)には「桜まつり」が地元町会・婦人会の協力で開始され、今日まで桜の名所として区民に親しまれている。





みーつけたっ!





播磨坂桜並木



2018/03/27
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20180327/1522779754

この時は桜が綺麗だったなあ♪





続く。