ほぼ丸の内線に沿って南下する。
坂が多くて歩くのが辛い(汗
「藤坂は箪笥(たんす)町より茗荷谷へ下るの坂なり、藤寺のかたはらなればかくいへり、」(『改撰江戸志』)藤寺とは坂下の曹洞宗伝明(でんみょう)寺である。
『東京名所図会』には、寺伝として「慶安三年寅年(1650)閏十月二十七日、三代将軍徳川家光 は、牛込高田辺御放鷹(鷹狩りのこと)御成の時、帰りの道筋、この寺に立ち寄り、庭一面に藤のあるのを見て、これこそ藤寺なりと上意があり」との記事があり、藤寺と呼ぶようになった。
昔は、この坂 から富士山 が望まれたので、富士坂ともいわれた。
『続江戸砂子』に、「清水谷は小日向の谷なり。むかしここに清水が湧き出した」とある。また、ここの伝明寺には銘木の藤あり、一帯は湿地で、禿(河童)がいて、禿坂ともいわれた。
藤寺のみさかをゆけば清水谷
清水ながれて蕗の薹もゆ(太田水穂)
藤が見事!
これは来年の藤の季節に来ないとだね。
入口の門左側に立派な庚申塔があった。
「小日向第六天町の北、小石川同心町の境を東より西へ下る坂あり・・・略・・・この坂を切支丹(きりしたん)坂というは誤りなり。本名”庚申坂”昔、坂下に庚申の碑あり・・・」『東京名所図会』
庚申信仰は庚申(かのえさる)の日(60日ごと)人が眠ると三尸の虫が人の体から出て天にのぼり天帝にその人の罪を告げるというところから、人々は一晩中夜明かしをした。この信仰は中国から伝わり、江戸時代盛んになった。従ってキリシタン坂はこの坂の地下鉄ガードの向こう側の坂のことである。
「・・・両側の藪の間を上る坂あり・・・・・これが真の切支丹坂なり」『東京名所図会』
◆小石川高等小学校跡/旧同心町
小石川高等小学校跡
明治41年(1908)4月、新しく小学校卒業生を対象とする修業年限2-3年の普通教育をほどこす「高等小学校」が設けられることになった。
旧小石川区内で1校設けられたのが、「黒田尋常小学校」(現在地・旧文京区第五中学校)に併設された「東京市黒田高等小学校」である。生徒数460名。
同年10月に旧竹早町109番地(現在地・竹早公園)に独立校舎を新築し移転する。同時に名称を「東京市小石川高等小学校」と改める。
昭和3年(1928)、この地(同心町20)に鉄筋校舎を新築移転する。生徒数1374名。
昭和16年(1941)4月、「東京市小石川国民学校(高等)」となる。
昭和22年(1947)3月、学制改革により廃校、新設の「文京区立第三中学校」に引き継がれる。
その後、校舎は「小石川工業高校」「小石川高校」が使用したが、昭和35年4月から「文京区立茗台中学校」となった。
旧同心町
幕府の先手組(さきてぐみ)の同心屋敷があったので、俗に同心町と唱えた。
先手組は組頭の下に与力・同心で組織され弓組と鉄砲組とがあった。将軍出陣のとき先ぽうをつとめる。平時は江戸城本丸の諸門の警備や、将軍外出のときは供をしてその警衛にあたった。
先手組の組頭は火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)を兼ねており、与力・同心は市中の警備も行った。
同心は与力に属した下級武士である。江戸町奉行はいかにも町役人の与力を助ける同心がいた。いわゆる八丁堀の同心である。
明治5年、近臨の土地を併せて旧来の名をとり同心町とした。
◆徳川慶喜終焉の地
徳川幕府最後の将軍慶喜は、水戸藩「徳川斉昭(なりあき)の七男として、天保8年(1837)小石川の上屋敷(現小石川後楽園一帯)で生まれた。
その後、御三卿の一橋家を相続した。ついで、幕末の動乱のさなか、長州攻めの陣中で没した第十四代将軍徳川家茂のあとを継ぎ、慶応2年(1866)第十五代将軍となった。
明治維新後、駿府(静岡県静岡市)に隠居した。明治30年(1897)東京の巣鴨、さらに明治34年誕生の地である旧水戸屋敷に近いこの地に移った。
慶喜は、のちに公爵、勲一等旭日大綬章を授けられ、朝敵とされた過去から名誉の回復がなされた。大正2年(1913)11月22日、急性肺炎のためこの地で没す。享年76歳。寛永寺墓地に葬られた。
続く。