24時間勤務アケで、茗荷谷から飯田橋まで散歩。
6/26日は丸の内線の北東側を散歩したが、今回は反対側を散策。
やはり坂が多くて手ごわい散歩だった。
◆茗荷谷
こういうMAPがあると助かる。
やはりgoogle mapだけだと行きそびれたりするからね・・・・。
「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼる坂なり云々。」と改撰江戸志にはある。これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、今日では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂をもいっている。
茗荷谷をはさんでのことであるので両者とも共通して理解してよいであろう。
さて、茗荷谷の地名については御府内備考に「……むかし、この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々。」とある。
自然景観と生活環境にちなんだ坂名の一つといえよう。
◆拓殖大学
◆深光寺
馬琴は、江戸の人。明和4年〜嘉永元年(1767〜1848)。江戸時代後期の著名な戯作者。”南総里見八犬伝 ””椿説弓張月 ”など、多数の作品を残した。
著作堂(ちょさどう)、蓑笠(さりゅう)、玄同(げんどう)など多くの別号をもち、晩年は髪をおろして、曲亭馬琴と号した。
墓碑には、馬琴の法名「著作堂隠誉蓑笠居士(ちょさどういんよさりゅうこじ)」と、馬琴より先に没した妻お百の法名「黙誉静舟到岸大姉(もくよせいしゅうとうがんだいし)」があり、台石には、馬琴の蔵書印といわれる家形の模様が刻まれている。江戸時代後期の著名な戯作者の墓として、歴史的価値が高い。(墓は本堂左わき)
なお、馬琴の墓の後ろ左側には、晩年、失明した馬琴を助け、南総里見八犬伝を完成させた、嫁の路女(みちじょ)が眠る墓がある。法名・操誉順節路霜大姉(そうよじゅんせつろそうだいし)。
◆茗荷谷
右側の小さな畑で茗荷を栽培している旨の看板があった。
このあたりは昭和四十一年四月一日の新住居表示の施行によって小日向の一部となるまでは「茗荷谷町」といっていた。
茗荷谷の名の由来については、このあたり古くから茗荷の産地で、多くの畠で茗荷が栽培されていたことから里俗(りぞく)に呼ばれるようになったものだとだと言われている。
江戸のころにはこの近くに切支丹屋敷や七間屋敷があった。
「御府内備孝」にも「茗荷谷は七間屋敷の北の谷なり、むかしこの所へ多く茗荷を作りしゆへの名なり。今もそのなごりの「めうが」畠すこしのこれり、此辺にはことに広く、その唱へも名高き所なり」とある。
続く。