2018/08/19 護国寺散歩 03 七丁目坂/関口三丁目公園/佐藤春夫旧居跡/旧関口台町/鳥尾坂/旧関口町/蓮光寺

やはり丸の内線に沿って北上する。
急な階段坂が多く、息が上がる(w



◆七丁目坂

google mapに載っていたので来てみたが、坂の説明板は無かった。
WEBで調べると「旧音羽七丁目と八丁目の間から上る坂で、七丁目坂と名づけられた。」とあった。




◆関口三丁目公園




佐藤春夫旧居跡




 佐藤春夫(1892〜1964)は詩人、小説家。昭和2年から、終焉の昭和39年5月6日まで住み、詩作、創作に励んだ異国風の住居のあった地。井伏鱒二太宰治など多くの門弟が出入りした。昭和60年、生地和歌山県新宮市に移築、保存されている。
 春夫は、明治43年上京。団子坂の森鷗外の観潮楼向かいに下宿して、慶応義塾大学に学ぶ。与謝野鉄幹永井荷風らに師事し、詩、小説に数多くの名作を残した。文芸時評、文芸史論の評価も高い。代表作は「殉情詩集」(大正10年)、「田園の憂鬱」(大正8年)、「晶子曼蛇羅」(昭和29年)など。昭和23年、芸術院会員。昭和35年文化勲章受賞。
 上京以来、2度ほど区外に出たほかは、47年間、千駄木、向丘、本駒込などに住み、文京区歌の作詞者(昭和26年制定)としても親しまれてきた。
 京都府知恩院が本墓であるが、伝通院にも分骨され、夫人とともに眠る。




◆旧関口台町




 もと、関口村の畑地。天和2年(1682)町屋を開き、享保5年(1720)から町方支配となった。
町名は、関口村の高台(目白台地)にあったからといわれる。関口の名称は、昔この辺りに奥州街道の関所があったから、また神田上水の大洗堰(おおあらいぜき)があったからともいわれる。
 芭蕉庵や水神社一帯は椿山と言われた。





◆鳥尾坂



 この坂は直線的なかなり広い坂道である。坂上の左側は独協学園、右側は東京カテドラル聖マリア大聖堂である。
 明治になって、旧関口町192番地に鳥尾小弥太(陸軍軍人、貴族院議員、子爵)が住んでいた。西側の鉄砲坂は人力車にしても自動車にしても急坂すぎたので、鳥尾家は私財を投じて坂道を開いた。
 地元の人々は鳥尾家に感謝して「鳥尾坂」と名づけ、坂下の左わきに坂名を刻んだ石柱を建てた。




◆旧関口町



 正保(1644〜48)のころまで関口村と言っていた。
 土地の人の伝えに、昔この辺りに奥州街道の関所があったので村名にしたという。
 また、神田上水を江戸川に分水するため堰(大洗堰)を設けたので、関口の名が起こったという。神田上水は、天正18年(1590)ころの開設と伝えられるので、それ以降に関口村の名称が起ったのではないかと言われる。
 天和(1681〜84)以後、町屋が開かれ、享保5年(1720)ころには町並地となり、武家屋敷もおかれた。
 明治5年、目白台の旧武家屋敷地、付近の寺地を合併して関口町となった。
 待ちが開かれつにつれて飛地ができ、数ヶ町に分かれた。





蓮光寺








続く。